捜査は日本中におよんだ。警察は警察庁をあげて大捜査網をしき、この無差別大量殺人犯の行方を追い、新聞もテレビも、この事件を大きく報じた。

 そして、一連の射殺事件から5カ月後の1969年4月、永山は逮捕される。

〈連続射殺魔ついに逮捕〉(読売新聞)

〈連続ピストル射殺事件 19歳のボーイが自供〉(朝日新聞)

〈連続射殺魔 つかまる〉(毎日新聞)

 新聞各紙は一面に顔写真を載せて、永山逮捕を報じた。そして、読売新聞、朝日新聞は、永山の実名を載せた(毎日新聞は匿名)。

網走番外地で生まれた極貧育ち
ネグレクトのすえの社会不適合か

 山口二矢のような政治犯ではなかった永山にたいして、逮捕直後、新聞やテレビが描いた人物像は、「浅はかで短絡的な男」だった。その報じ方は、大人の事件とさして変わらない。

〈ゆがんだ欲求不満 『でかい事』にあこがれ〉(朝日新聞)

〈内気で孤独放浪癖 青森から集団就職〉(読売新聞)

〈カッコいい生活の末路〉〈行きずりの殺人旅行〉(毎日新聞)

 こうした見出しから読み取れるのは、行きずりの大人の自堕落な犯行といったイメージだ。

 ところが、永山のイメージは、起訴された後の刑事裁判のさなかに、おおきく変化を見せる。少年、永山の人物像は、しだいに資本主義の「落とし子」としてとらえ直されていくのだ。

 それは、永山の成育歴に起因するところがおおきかった。

 永山は、北海道網走市の長屋で生まれ、青森の北津軽で育った。家庭は、極貧。父は博打打ちで放蕩し、母は貧困のなかで行商をしていて、8人兄弟の7人目だった彼の面倒をみなかった。今でいうところのネグレクトだ。

 中学卒業後、15歳で「金の卵」の1人として上京した永山は、集団就職したものの、生活はままならず、職を転々とした末に、一連の事件をおこしていた。

 事件そのものは残虐だったが、永山個人の成育歴だけをみればどうか。少年法が想定する、典型的な「少年」だったのである。

 メディア史上で考えれば、永山の事件こそ、少年事件の誕生といっていいだろう。

不遇を綴った手記が出版され
6万部を売るベストセラーに

 そのとらえかたを決定的にしたのは、彼が東京地裁で裁判を受けているときに出版した1冊の本だった。

 『無知の涙』だ。

「キケ人ヤ 世ノ裏路ヲ歩クモノノ悲哀ナ タワゴトヲ キケ人ヤ 貧シキ者トソノ子ラノ指先ノ 冷タキ血ヲ」