それで寝過ごして大学に来ない、というようなことも頻繁にあり、そのせいで落とした単位も数知れなかった。自分のやり方があまり良くないということは野々宮自身もわかっているはずだったが、彼はそういう風にしか勉強することができないようだった。
極限まで自分を追い込んで気絶し、身体が回復するまで眠る、その繰り返しで少しずつ前進していくという不器用なスタイルが彼の勉強法であり、そして生き様そのものだったのである。
結局、最終的にTOEICの点数は息切れした私と大して変わらず、700点台の前半だった。
漢字が苦手なレベルから
努力を重ねてマスコミに合格
しかし、野々宮はそうして真剣に就活に励んだ結果、見事にマスコミへの就職を果たした。京大生は就活においてかなり有利なポジションにいるが、大手マスコミなどはもちろん難易度が高く、東大生や京大生だからといって簡単に入れるほど甘い世界ではない。
野々宮は愚直にエントリーシートを書き続け、偏執狂のようなレベルで面接や小論文対策を繰り返し、謎の一発芸をいくつも用意し(私はX JAPANのラストライブのYOSHIKIのモノマネを見せられた)、それらを私や他の友人の前で恥ずかしがることもなく披露しまくり、地道なブラッシュアップを重ねて見事に標的を撃破したのである。
思い返してみれば、野々宮は誰に何を言われても、自分の信念を曲げたことが一度もなかった。
京大も絶対に無理と言われていたところから合格に持っていったらしかったし、マスコミもやめとけと散々言われまくっていた(「麻雀」すら書けなかったのに記事を書くような仕事は向いていないぞ、という友人が多かったし、今でも覚えているが、私が見たエントリーシートでは好きな作家欄の「芥川龍之介」が「芥川龍之助」になっていた。読ませてもらった小論文も初期の頃はひどい内容だった)ところから内定まで持っていった。