新球団を作ったはいいものの
選手が集まらない大ピンチ
永田雅一はこれを喜び「大映スターズからも選手を出して協力する」と語った。しかし、永田はいざとなると主力選手を出し渋り、引退が囁かれていた38歳の大投手、ヴィクトル・スタルヒンを出したのみ。

積極的に協力したのが南海ホークスの鶴岡一人監督。
実質的なGMでもあった鶴岡は、信頼の篤かった外野手の黒田一博(広島、ドジャーズ、ヤンキースで活躍した黒田博樹の父)、ベテラン外野手の笠原和夫、昭和26年の最多勝投手の江藤正を移籍させている。ただこの3人は「酒好き」で、「南海は酔っ払いばかり寄こした」と陰口をたたかれた。
このほか、毎日オリオンズからは先発投手の野村武史、若手投手の滝良彦、内野手の河内卓司らを移籍させた。
監督には広島出身で、前阪急ブレーブス監督の浜崎真二が就任した。
しかし、セ・リーグは一切協力しなかった。
当時、パ・リーグは南海、阪急、近鉄、西鉄と西日本の私鉄を親会社にする球団が多かった。関東には毎日、東急、大映と3球団あったが、ここに神奈川県を本拠地とする高橋が加入すると、関東のセ・リーグ球団の観客を奪いかねない。
そこで、これに対抗するためにセ・リーグは「新日本リーグ」という「ファームチームだけのリーグ」を創設し、パ・リーグに対抗した。
25年の分立時に阪神から毎日に大量の選手が引き抜かれるなど、ルール無用の引き抜き合戦をしたことが、深い傷となり、セ・パ両リーグは、ずっと仲が悪かったのだ。
永田雅一に放逐された
スタルヒンが古巣相手に好投
アイデアマンだった永田雅一総裁は高橋ユニオンズの参入初年である昭和29年シーズン、「勝率が3割5分を割った球団には制裁金500万円を科する」というルールを決めた。