当時の500万円は現在なら約3億円に相当するが、このルールによって下位チームが奮起し、ペナントレースが活性化すると考えたのだ。

 高橋ユニオンズのオーナー、高橋龍太郎にとっては迷惑なルールだった。その500万円はユニオンズの場合、高橋のポケットマネーから出すことになるからだ。

 しかし高橋ユニオンズはこの年、予想外に健闘した。

 開幕から6連敗を喫するなど夏までは最下位を独走したが、8月には6連勝。とくに永田雅一の大映には3連勝。この時期からスタルヒンが復活し、ローテの中心で活躍。また外国人捕手のサル・レッカが打率は2割ちょうどながら23本塁打、67打点と活躍した。

 最終的には53勝84敗3分、勝率は3割8分7厘で制裁金を逃れた。8球団中6位。対戦成績では唯一、大映に12勝8敗と勝ち越した。そして高橋に負け越した大映が43勝92敗5分、勝率3割1分9厘と3割5分を割り込み、制裁金を支払うことになった。

 永田雅一は、自身が決めたルールによって、大金を支払うことになったのだ。

カネも人気も戦力もふるわぬまま
2年目には最下位に沈む

 高橋は球団運営の負担の大きさに苦しみ、翌年の昭和30年はトンボ鉛筆にスポンサードを受けることとし、球団名も「トンボユニオンズ」となる。

 2年目のシーズンに期待がかかったが開幕から12連敗。レッカが10本塁打、打率1割6分7厘と文字通り劣化し、打線は弱体化。一度も浮上することなく42勝98敗1分、勝率3割ちょうど。制裁金500万円を支払うこととなった。

 この年、スタルヒンは7月30日の近鉄戦で史上初の300勝を達成も、この年限りで引退している。浜崎真二監督はシーズン途中で退任。笠原和夫がプレーイングマネジャーになる。

 制裁金500万円を支払うために高橋龍太郎は翌年、邸宅を売却するに至る。

 追い打ちをかけるように、トンボ鉛筆は1年限りでスポンサーから撤退した。

 そして高橋ユニオンズは、全く人気がなかった。高橋の観客動員は29年が70試合で21万2400人余、30年が16万3250人。同時期の巨人、中日の動員数は100万人を超えていた。パ・リーグでも南海は70万人を動員していた。