前述の通り、セ・リーグは高橋の創設に警戒心を抱き、新日本リーグを創設したが、高橋が不入りだったためにその必要なしとして30年限りで廃止した。

スター選手を獲得するも
資金がショートして解散

 昭和31年、高橋に東京六大学のスター選手が入団する。慶應義塾大学の花形内野手の佐々木信也が入団したのだ。佐々木は社会人野球への入団が内定していたが、母の勧めもあり、一転、高橋への入団が決まる。

 この年、永田雅一総裁は「せめて観客動員だけでもセ・リーグに勝つために」と、試合数を140試合から154試合に増やす。

 佐々木信也は開幕から「1番・二塁」でスタメン出場し、南海の杉山光平、飯田徳治とともに全試合出場。154試合制はこの年限りだった。シーズン154試合出場は今もNPB記録だ。

 佐々木信也は引退後『プロ野球ニュース』で一世を風靡するキャスターになる。

 前年よりもチーム状況は少しマシになるも、勝率は「制裁金」の3割5分前後を上下していた。最終戦、毎日との試合に勝って高橋は52勝98敗4分、勝率3割5分1厘となり、制裁金を免れた。

 チームはまるで優勝したような騒ぎになった。この年の観客動員は77試合で13万5850人だった。

 翌年、高橋ユニオンズナインは岡山でキャンプを開始したが、そこへ球団関係者がやってきて「解散」を告げた。高橋龍太郎の資産がこれ以上続かなかったうえに、スポンサーも獲得できなかったのだ。

 形式上、高橋ユニオンズは永田雅一の大映スターズと合併し、「大映ユニオンズ」となった。

 球団解散時79歳の高橋龍太郎は、永田雅一に振り回された挙げ句に資産を失うこととなった。

 しかし、高橋はユニオンズの選手を愛し、チームを愛した。晩年に至るまで、ユニオンズに関してひと言の愚痴も言わなかったという。これぞ、大人の風格というべきか。