手紙のなかでセネカは、いまの悲しみを克服する方法を教えるとともに、このあともそうした悲しみのとりこにならないために助言している。

 必要なのは、悲しみをもたらす事態を予期することだとセネカは言う。いま自分が持っているものはすべて運命からの「借りもの」だということを忘れてはならない。そして運命は、私たちの許しも乞わず、事前通告さえないままに、それを回収できるのだ。

 だからこそ、「愛しい者たちすべてを愛すべきなのです……ただつねに考えていなくてはならないのは、彼らが永久に私たちのもとにいる約束はまったくないことです。いや、永久どころか長いこと私たちのもとにいるという約束さえもないのです」。

 だとすれば私たちは、愛しい者たちとの交わりを楽しみながらも、この楽しみにはいつか終わりが来るかもしれないことを、繰り返し立ち止まって考えなければならない。いずれにせよ、私たち自身の死がそれを終わらせるだろう。

最悪を思い描くからこそ
深い喜びが得られる

 エピクテトスもまた、ネガティブ・ビジュアリゼーションを勧める。たとえばわが子にキスするときには、その子もまた死を免れない人間であり、自分が所有しているわけではないこと――「永遠にではなく、いま現在のために与えられたものであること」――を忘れてはならない。その子にキスするとき、私たちはその子が明日死ぬかもしれないという可能性を心のなかで考えるべきなのだ。

 マルクス・アウレリウス(編集部注/第16代ローマ皇帝。ストア哲学などの学識に長け良く国を治めたと評価されている)は、『自省録』のなかでこのアドバイスをあげて同意している。

 子どもの死を想像することで、私たちはその子をいっそう大事に思うことになる。ふたりの父親をくらべてみよう。

 ひとりはエピクテトスのアドバイスにならって、繰り返し子どもが死ぬべき運命にあることを考える。もうひとりの父親はそんな暗い考えを拒み、子どもが自分より長生きしていつもそばで楽しませてくれるものと決めこむ。