かゆい部分を補う「オルタナ婚」
日本で馴染みにくいのはなぜ?

 少し話がそれたが、つまり日本と欧米諸国では結婚と出産・子育てに対する考え方が根底から大幅に違うので、欧米から急に「オープンマリッジ」などの新語を輸入してもなかなか突拍子がなくて日本の土壌にはなじみにくい……という背景はある。「オープンマリッジ」や「セカンドパートナー」(こちらは横文字で欧米輸入っぽく見せた国内品)と耳にしたときに感じる違和感は、それと無関係ではあるまい。

 ただ結婚という制度において、手が届かないかゆい部分を補おうとしてPACSやオープンマリッジ、セカンドパートナーなどのオルタナ結婚が考案され、試されてきた……という人類史にはうなずける。

 当方浮気も不倫もない結婚して約10年のまじめな中年だが、人為的なものに「永遠」なんてないはずなのに、そこを押して永遠の愛を誓わせる結婚式のあの演出からしてなかなか無責任でぶっ飛んだ過激さであるという考えは昔から変わらない。そこからの脱却を図るオルタナ結婚の道はたしかに模索されて妥当なように思える。

 しかしやはり、それでも結婚時には誓ってしまったわけで(無論「誓いたい!」と思うパートナーと出会えたから誓うのだが)、その誓いをまっとうしようと大なり小なり努力することになる。

 だから特に品行方正な既婚者にとって、そうした努力を怠ったり、パートナーへの配慮が浅かったり、つまりは苦難の過程をすっ飛ばしてチャラーンと遊んでいるふうに見える既婚者がなんとなく気に入らなく思えてしまうのは、同じ既婚者として仕方のない感情の反応なのだと思う。

 それは単純に「いいな。自分も遊びたいのに」という嫉妬から出発したものかもしれないし、「自分の快楽のために誰かを傷つけて許せない」という義憤かもしれないし、「そっちの人生よりこっちの人生の方が価値あるものなんだ」という独りよがりな対抗意識かもしれない。

 そうした感情はそれとして受け止め自分の一部として受容し、それに振り回されることなく、自分が大切にできるものを大切にしていく努力を続けていけることが理想である。

 といったややこしくも愛おしい葛藤を伴うのが、よくも悪くも従来型の結婚である。対するオルタナ結婚はそこからの脱却を目指して、「『永遠の愛』とかキレイごとだけでなく、ドロドロな部分もあるなら洗い出して向き合って、個を輝かせていきましょう」という真摯な姿勢の表れ……と言い表すこともできるのではあるまいか。

 念を押すが、どちらがいい悪いではない。自分に合ったライフスタイルを選ぶのがよろしい。しかるべき誠意を経ればどのような生き方であろうと説得力は備わるはずである。