共学は社会の縮図、別学は守られた聖域
さて、別学の最大の良さは、何と言っても異性がいないことによる自由さにあるでしょう。共学はいわば男女がともに暮らしたり、関わり合ったりする、会社や実際の社会の縮図のようなものです。そのため、共学では、別学よりも「社会的な生き方」が求められます。
他方、別学は、ある意味では、「社会」以前の「学校らしさ」を保っているとも言えます。
共学では男女という性差がある中で、それぞれが存在しており、求められるポジションや役割もおのずと決まっていきます。ジェンダー平等が言われる現代であっても、男子に求められること、女子に求められることがある程度固定化される傾向があるのは否定できません。
また、共学では、それぞれが個性を出しつつも、どうしても外部の目や異性の目を気にしてふるまうことになります。たとえば、「モテる・モテない」、成績の優劣といった評価軸が存在し、他人からの評価を常に意識せざるを得ない環境もあります。
保護者にしてみれば、共学に通わせたほうが、社会に出たときに直面する「他者の目」を早くから意識し、その他者に合わせていくアジャスト能力を養うことができるという考え方もあります。実際、最近共学がブームになっているのは、こうした社会適応力を重視する保護者が増えているからとも言えます。
これに対して、別学では、異性がいないため、「異性寄り」のキャラクターを含め、多様な個性を発揮することができます。女子校では、ボーイッシュな子も一つのポジションを得やすいですし、男子校では、遠慮がちだったり、慎重な性格だったりしても、多様なクラスの一員として、自分らしさを出しやすくなります。
別学では、共学よりも評価軸が多様なため、他人の評価を気にしすぎることなく生活できて、自分らしさを確立しやすいのです。別学は良い意味で「守られた聖域」であり、こうした安心、安全な場所で、多感な時期を過ごすことの価値は大きいでしょう。
ただ、そこで身についた一部の行動様式は、社会に出た際に受け入れられないものもあるということは意識しておく必要があります。というのも、昔は受け入れられていた「男子校ノリ」「女子校ノリ」といった「文化」は、現在の社会では通用しなくなっている面があるからです。
たとえば、「男子校ノリ」の一種として、昭和時代なら許容されていた、飲み会での一気飲みや裸踊りなどは、現代では、危険という認識だったり、圧力をかけたりすればパワハラ・セクハラとして問題になります。
なお、保護者の時代の別学とは違い、特にスマホが普及した現代では、男子校だからといって全く女子と関わりがないわけではなく、逆もまたしかりです。
生徒会同士で交流があったり、塾で異性と一緒になったり、特定の男子校と女子校で共同イベントを開催したりするような、大学の「インカレ」的な動きがあったりするなど、昔とは、別学のあり方も少しずつ変わってきている面もあります。