南海にとって1959年のパレードは
歴史的な夢が叶った瞬間だった
1950年代の日本シリーズで、南海は読売に4度敗退した。だが、同年代最後の年、1959年だけはちがう。やはり、南海と読売の対戦であったが、この時は南海に凱歌があがった。しかも、4勝無敗と圧倒することができている。
最大の功労者は、なんと言っても、新しいエースの杉浦忠であったろう。入団2年目の杉浦は、この年パ・リーグで38勝を記録した。読売との日本シリーズでも全試合になげている。雨天順延のゲームも1回だけあったが、4連投の4勝という記録を達成した。
日本一を東京の後楽園球場できめた選手たちは、翌朝すぐに大阪へかえっている。南海をひきいた監督である鶴岡一人は、その足で小原英一オーナーの家へおもむいた。余命いくばくもないとされたオーナーに、優勝の報告をするためである。病床の小原は鶴岡へ、「これで思い残すことはなくなった」とつげたらしい(『南海ホークス四十年史』)。
宿敵である読売に勝って、積年のうらみをはらす。自分たちのエースをひきぬいてのしあがったジャイアンツに、復讐する。
その宿願をみのらせたことが、御堂筋のパレードにつながった。ただの祝勝行進ではない。チームの歴史的な夢がかなったからこそ、あれは挙行されたのである。少し長くなるが、以下に南海の球団史からパレードの様子をひきうつす。
夢にまでみたパレードの号外は
30万部を売り大阪中が大歓喜
「夢にまで見た“御堂筋パレード”が大阪球場の前からスタートしたのは午前一一時だった。黄色くなった御堂筋の公孫樹の葉が、勝利を祝う紙吹雪と一緒に乱舞した。“男の花道”を埋めた熱狂のファンは大阪府警の発表によると二十万人以上。この日のスポーツニッポン紙は、感激に湧くドラマチックなパレード風景の写真と、四試合の経過を大々的に伝える臨時号外を出し、三十万部を売りつくしたというから、南海ファンもまた、いかにこの日を待ちわびていたかが判る」(同前)