叔父の最期を知るまでは
死んでも死にきれない
そしてこの文集に言葉を寄せた同級生らが中心になり、戦死から20年以上が経過した昭和41(1966)年10月、葛渡の集落の入り口に慰霊碑が建てられ、記憶がつながっていくことになる。
除幕式には、清さんの母ミエさん、姉のフミさん、姪の孝子さんが出席した。父の庄五郎さんは、その年の3月に亡くなっていた。
《じいさんは、清さんのことは全然話さなかったですもんね……。国から遺族恩給を受け取っとったんですけど、「3人も戦死して、金ばもろうてよかね」みたいなことを言われたことがあったみたいで、それには腹を立てとったですよ。でもじいさんから聞いたのは、それくらいでしたね。
孝子さんの証言より》
孝子さんの証言より》
孝子さんたち遺族が、清さんの死を受け入れるためにも、供養のためにも、どうしても知りたいと願っていたのが、「どのような最期を迎えたのか」ということだった。
彼女たちがようやくその一端を知ることができたのは、慰霊碑の建設から8年後の昭和49(1974)年、葉桜隊をアメリカ艦隊の上空まで誘導・護衛した角田和男さんが訪ねてきた時のことだった。
角田さんはこの時、崎田さんだけでなく、山下さん、櫻森さんら九州出身の3人の葉桜隊員の故郷を行脚し、彼らの御霊を弔うとともに、出撃前の様子、そして上空から見届けた突入の瞬間について遺族に伝えていった。
米空母に突入する瞬間の
映像がついに見つかった
その葉桜隊6人の最期の様子を克明にとらえた映像が、織田さん(編集部注/織田祐輔。航空戦史研究家)によって発見された。
1944年10月30日、特攻機の攻撃を受けた4隻の正規空母「フランクリン」、「ベロー・ウッド」、「エンタープライズ」、「サン・ジャシント」から、何台ものカメラで突入の瞬間が撮影されていた。
以下は、日米の資料を照合した織田さんの教示に基づく、葉桜隊の最期の様子である。(写真2-8~16)







