「特攻」作戦は、なぜ続けられたのか写真はイメージです Photo:PIXTA

終戦に直面し、なお出撃を訴える特攻隊員たち。その熱気と対照的に、責任を負うべき司令官たちは当惑するばかりだった。戦時中は陸軍の報道班員として東南アジア各地に従軍した筆者は1945年、知覧(鹿児島県)の航空基地に転属。そこで特攻隊員たちの肉声に触れた。※本稿は、高木俊朗『特攻基地 知覧』(角川新書)の一部を抜粋・編集したものです。

すでに死ぬ気になった
特攻隊員は止まらない

 特攻作戦を指揮した、第六航空軍の司令部のなかは、朝から混乱していた。福岡市の女学校の校舎を使っていた軍司令部は、6月19日の福岡市の大空襲のあと、学校の西側の山のなかに移った。

 降伏の情報はわかっていた。軍医部から軍司令部の全員に、薬の紙包みが配布された。なかには、自決するための青酸カリがはいっていた。しかし、天皇の放送を聞いたあとは、“聖旨にそって”自決は自重することになった。

 まもなく、福岡市の蓆田(今の板付)、佐賀県の目達原などの飛行場にいる特攻隊が、不穏な気勢をあげているという情報が伝えられた。降伏と同時に、死から解放された特攻隊員が、その反動で無秩序になるのは、当然考えられることであった。

 その報告を聞きながら、高級参謀の鈴木京大佐は、今後の処置を考えていた。六航軍としては、九州だけでなく、鈴鹿以西を管区としていたから、そこに散在している飛行場と兵員の処理を考えねばならなかった。しかし、本土決戦のために用意した3000機の特攻隊を、無事に解散させるのが、一番の大問題であった。

 その時、壕の入口の方で、何か争うような声がして、乱暴な足音が高級参謀の部屋の方に近づいてきた。それを副官がとめているらしかったが、つきとばし押しのけて飛行服を着た5、6名の空中勤務者がはいってきた。服のそでに日の丸をつけているので、特攻隊員であることがわかった。