玄関先にいた孝子さんというその女性に声をかけ、事情を説明したところ、清さんのことで訪ねてきたことを殊のほか喜んでくれ、仏間で話を聞かせてもらうことになった。

この劣勢を覆すには
一億特攻しか残されていない

 仏壇の下には、清さんの遺品が大切に収められていた。それらを取り出しながら、孝子さんが「叔父も、恵まれていると思うね。こういう本を作ってもらったり……」と、見開きB4サイズほどの分厚い冊子を見せてくれた。

 淡い色使いの上品な表紙に、「神鷲 崎田少尉」とあり、送り主は、「鹿児島県立出水中学校報国団」となっている。清さんの母校で、戦死の直後に編纂した追悼文集だった。

 表紙をめくると、学校長による勇ましい巻頭言から始まっていた。

 《特攻隊の神風は、其の質に於て時空の範囲内に比すべきものは無い。然し其の量が少くてはやはり質は粗悪ながらも量の大きなものには押されてしまふ。

 我等は深く思を茲(ここ)に致さねばならぬ。前線の将士は一人残らず特攻隊たらんとしてゐる。それでも十分でない。

 一億国民前線銃後の別無く一人残らず特攻隊となるに及んで始めて醜敵を一挙に殲滅し去る大神風が起こるのだ。(略)一億の特攻隊を以て世界を覆し、大神風を起せ。これこそ崎田少尉の英霊に應(こた)ふるの道である

文集「神鷲 崎田少尉」より》

 同級生らは、崎田さんが戦死する半年ほど前の昭和19年3月に中学を卒業していた。故郷で職に就いた者、さらに高等教育に進んだ者、崎田さんのように軍に志願した者などさまざまだったが、新聞や人づてに級友の死を知り大きな衝撃を受けていた。

 皆一様に綴っていたのは、彼がいかに大変な思いをして学校まで通っていたのかということだ。現在は廃線となっている自宅近くの駅まで2キロほど歩き、そこから汽車で水俣駅に出て、汽車を乗り換え県境をまたいで鹿児島県の出水駅まで。そこから学校までもさらに2キロの距離だ。そのためか、足腰が強く、長距離走がめっぽう強かったという。