Aをはじめ、そこにいた人々には、これ以上何もできなかった。断腸の思い、身を切る思い、そんなものを通り越した悲痛が皆を襲った。
Bを助けようにも、銃の備えがない農家だったため、一同はなす術なく屋内から出ずに夜明けを待つほかなかった。
凄惨な事件現場が物語る
悲劇のあとの尽きぬ悲しみ
翌朝、笹藪の中の様子を窺うと、すでにヒグマの姿はなかった。辺りはシーンと静まり返っていた。
さらに周辺を注意深く見て回った。変わり果てたBの遺体が地面に横たわっているのを発見した。腰から下がすべて食い尽くされていた。あまりにも惨い光景だった。
さらに付近を見回すと、長男のCが倒れていた。瀕死の状態であったが、かすかに息をしていた。即座に家の中へCを運んだ。
一刻も早く医者に診てもらいたかったが、病院に連絡する手段がなかった。いてもたってもいられぬ中、偶然にも家のそばを人が通りかかったため、皆が大声で叫んだ。事情を知らせ、応援を頼んだ。
しばらくすると、状況を知った村人たちが駆けつけ、Cを沼田病院へ運んだ。だが、Cは病院で息を引き取った。一夜にして、3人の命が失われた。妻と2人の息子を亡くしたAも重傷であった。
官民一体による討伐作戦
しかし被害は出続けた
事件翌日となる8月22日、地元消防団や青年団などが警戒体制をしき、夜を徹して周囲の見回りを敢行した。だが、この日ヒグマは見つからなかった。23日になると、管轄の警官や帝室林野管理局員らが現場に駆けつけ、現場情報の共有と対策談義が行われた。この惨劇は周辺の集落にも知れ渡り、幌新・恵比島の男衆がほぼ全員集まり、総勢300人(220人という記録もある)近い人員体制でのヒグマ討伐隊が組織された。
一方、討伐隊が組織されるよりも先に、雨竜伏古集落(現・雨竜町)から応援者が駆けつけていた。ヒグマ狩りの名人として名高いG(年齢不明)とH(57歳)、さらにアイヌの1人であった。3人は銃を手に、事件の詳細を聞いた。中でもHは状況を知るにつけ大きく憤慨し、「ヒグマは自分が見つけて、必ず射止める」、そう言って単身森へと入っていった。単独行動は危険だと周囲は止めたが、Hは聞く耳を持たなかった。