非核三原則を国民に誓いながら…米国との板挟みに苦悩した首相とは写真はイメージです Photo:PIXTA

唯一の被爆国として「核を持ち込ませない」と国民に誓いながらも、現実には米国の「核の傘」に依存せざるを得なかった戦後日本。なかでも大平正芳首相は、アメリカの度重なる核持ち込みという現実と理想の間で苦しんだ。大平の苦悩を、極秘文書と関係者証言から明らかにする。※本稿は、藤田直央『極秘文書が明かす戦後日本外交 歴代首相の政治決断に迫る』(朝日新聞出版)一部を抜粋・編集したものです。

米国の都合の前に
揺れる非核三原則

 唯一の戦争被爆国として核廃絶を唱えながら、米国の「核の傘」に頼る日本。冷戦後も東アジアで緊張が続く中、この矛盾から抜け出せない日本政府が今もごまかしを続ける問題がある。米国から日本への核兵器の「持ち込み」についてだ。

 ロシアと並ぶ核大国である米国は、核兵器の具体的な配備について肯定も否定もしないNCND(neither confirm nor deny)という政策をとる。

 世界に展開する米軍がどこから核兵器を使ってくるかわからないことが、米国や同盟国への攻撃をためらわせる。つまり抑止になるというのが最大の理由だ。

 一方で日本政府は、米国から原爆を広島と長崎に落とされ約21万人の命が奪われた国民感情をふまえ、戦後の歴代首相が日本に核兵器を持ち込ませないと述べてきた。

 1967年には首相の佐藤栄作が「持たず、作らず、持ち込ませず」の非核三原則を国会答弁で表明し、2024年に首相になった石破茂も堅持するとしている。

 だが、その日本を米国は「核の傘」で守ることにもなっている。

 両国の間には、戦後日本の外交・安全保障の土台となっている日米安全保障条約があり、1960年に改定されて今に至る。その第6条では、米国が日本を含む極東の安全に寄与するために、米軍が日本の領域で活動できるとしている。