指摘は正しい。岡田は外相当時の2009~10年、密約の存在が指摘されていた日米間の様々な問題を外務省に調査させ、この核兵器「持ち込み」に関する両政府のやり取りを記した一連の文書を公開させた。
その文書から、日本政府が米国政府との解釈の違いに遅くとも1963年に気づいたにもかかわらず、以降も事前協議の対象になるとの答弁を国会で続けていたことがはっきりしているのだ。
だが、林は前記の通りこの問題について答弁を避けた。そして「冷戦終結後の米国の核政策」、つまり1991年にブッシュ政権が米軍艦船から戦術核兵器を撤去すると表明したことに加え、「米国は我が国の非核三原則をよく理解している」ので、米軍艦船による核兵器の「持ち込み」を心配する必要はないと答えた。
それでは「密約解明前に戻ってしまう」と岡田は批判。それは、両政府が解釈の違いに気づきながらごまかしていたことは民主党政権での密約調査で公開された文書からすでに明らかなのに、まだ認めず、かつてと同じようにごまかすのかという意味だ。
核を乗せた船が寄港しても
事前協議の対象ではない
この密約が生まれ、維持された1960~80年代に、国民に事実を語ろうとした人物が2人、政府中枢にいた。だが日米同盟や自民党政権という戦後体制を揺るがしてはならないというしがらみから実行できず、結局密約に加担した。
その葛藤があらわな文書を筆者は入手した。いま「密約解明前」に戻ろうとする日本政府に警鐘を鳴らすべく紹介する。
1人目は、1978~80年に首相を務めた大平正芳だ。自民党で保守本流と呼ばれた派閥「宏池会」の領袖でもあり、岸田や林の大先輩になる。
まず大平が、米軍艦船による核兵器「持ち込み」に関する日米両政府の解釈の違いを知った経緯を、2010年の密約調査を経て外務省が公開した文書からおさえておく。
1963年4月13日付で外務省アメリカ局安全保障課が「極秘」で作成した「核兵器の持ち込みに関する事前協議の件」。ここが遅くとも密約の起点になったと言える、日米間の会談に言及がある。







