しかし私は、おやじの生前、彼との関係をどこかで断ち切っていました。高校生ぐらいになると、戦争の話をしても何の反省もないおやじが恥ずかしくてね。ほら、元兵士がメディアに出て「平和が一番」とか言うじゃないですか。うちのおやじは、そんなこと一言も言わないんです。いつまで経っても「うちの連隊は連戦連勝だった」とか、「武器さえあれば勝っとう」とか、そんな話ばかりでした。
私の鉄矢という名前だって、「もう一回アメリカと戦争になるだろうから、その時は武器に恵まれますように」とつけたものです。戦争はいけないとか、まったく思っていませんでした。
歌手として人気が出た頃
母は取材に「父は戦死した」と語った
大学在学中に「フォークシンガーになりたい」と家を出て、上京しました。「1年だけ」という母ちゃんとの約束でした。おやじは「お前、まさか美空ひばり(1937~1989年)の仲間になれると思うとか」と不機嫌な顔で言っていました。
そして出した博多弁の歌『母に捧げるバラード』(1973年)で人気に火がつきました。母ちゃん、大喜びでね。週刊誌の方が我が家まで取材に来たことがありました。どうやら、私の歌から「母子家庭のにおい」がしたらしく、記者が母に尋ねたんです。「お父様はどの戦線でお亡くなりになられたのですか」って。母ちゃん調子に乗って、「フィリピンで死にました。見事な最期でした」と答えたそうです。
家の奥に隠れていたおやじがこれを聞いて、記者が帰った後で大げんかですよ。母ちゃんが言い放ったのが「あんたが死んどった方が、あの歌が盛り上がるったい」。もう、喜劇ですよね。
この頃、戦友会に出たおやじが、雲の上の存在だった連隊長から「武田!」と呼ばれたんです。直立不動になったところ、「あの武田鉄矢は、貴様の息子か」と握手を求められたそうです。おやじ、涙を流しながら何度も話していました。彼の人生での喜びは、私の存在ではなくて「連隊長に褒められた」だったんですね。







