12歳上の兄が大学を出て地元の新聞社の試験を受けた時のことです。おやじが兄に「新聞社の試験に出るから、歴代天皇の名前だけは覚えておけ」と言うんです。悲しい声かけですよ。兄が「そんなものが出るわけない。出るならアメリカの歴代大統領たい」と答え、つかみ合いのけんかになりました。まだ小さかった私は、本当に嫌でした。おやじと折り合いの悪い兄は家を出て、姉たちもやがて家を出て行きました。私もおやじと取っ組み合いのけんか、しましたよ。

 当時の光景をいま遠くに思い浮かべると、分かるような気がします。おやじには「居場所」がなかったんだと。戦争に負け、軍が解散し、博多に帰ってきた次の日から鉄工所の旋盤工として油まみれで働いてきた。2等兵のごとく自分に従うはずだった息子たちは自分にはまったく理解できない「戦後民主主義の子」になっているわけですから、混乱したことでしょう。そして、米軍将校の家に「女中」のように仕える女房に対する怒りをため込んでいたのだと思います。

 おやじは月給1万円そこらの旋盤工でした。子ども5人を抱えて金は出て行くばかりなのに、少ない給料を全部はたいて、飲んでしまうんです。やけ酒ですよ。飲むと暴れ出してお膳をひっくり返す、鉄拳をふるう。そのうち包丁を持ちだして、「飲んだ俺が悪かった。これから切腹する」なんて芝居がかったことを言う。みんなで止めて、母ちゃんはわんわん泣いてね。

戦争のトラウマを引きずって
働き続けるしかなかった父

「トラウマ」なんて言葉、あの頃は私たち知りませんでした。私が兵士のトラウマのことを知ったのは、ベトナム帰還兵を描いたハリウッド映画『ランボー』(1982年)を見てからでした。

 全部振り返ると、おやじは戦争によるトラウマの傷のうずきに耐えながら、油まみれになって高度経済成長期の中で働いていたんだなあと。きついですよね。戦争で負けて帰ってきて、日本経済を立て直すために安い給料でアリのように働いて。トラウマのヒリヒリするような痛みを抱えて、それを酒でしか癒やせない境涯だったんだろうなあ。