第1は1872年、日本初の鉄道として開通した官設鉄道新橋~横浜間の一部である新橋~品川間、第2は1883年、日本初の私鉄・日本鉄道線上野~熊谷間の一部である上野~田端間だ。ただし、田端駅はこの時点で未開業である(1896年開業)。

 そして1885年、日本鉄道と官設鉄道の連絡線として、赤羽~品川間に日本鉄道品川線が開業した。両路線の接続は上野~新橋間が最短だが、江戸以来の市街地に鉄道を建設するのは困難だったため、新宿経由の迂回ルートで接続した。

 宿場町・内藤新宿から外れた位置に置かれた新宿駅は、開業当初の乗降客が50人程度にすぎず、品川線は貿易港・横浜に直行する官設鉄道と連絡し、北関東の絹織物を貨物輸送することが主目的だった。

 近代国家としての体裁が整いつつあった1888年、東京初の都市計画「東京市区改正条例」が公布された。鉄道では懸案だった上野~新橋間の市内縦貫鉄道と、中央停車場(東京駅)の建設が盛り込まれ、市街地での鉄道建設が動き出した。

 この任を受けたのが鉄道庁の技師だった野村龍太郎(後の南満州鉄道総裁)だ。市内縦貫鉄道と中央停車場の予算案が1896年に上程されたことを受け、彼はロンドン、ニューヨーク、シカゴ、ベルリンに派遣された。各国の市街鉄道を視察した上で、東京はベルリンを参考にすべきと具申した。

 野村が注目したのはベルリンの環状線だ。彼は東京においても「市内列車は上野品川間(市内縦貫鉄道)を5分ないし10分ごとに往復せしめ、またその間おおよそ1時間ごとに品川赤羽線を経て一周する循環列車を発すべき」として、本数は限定的ながら都心から赤羽に行き、スイッチバックで新宿方面に進み、品川経由で都心に戻る環状運転を提案した。

 この計画を実現するため、ベルリン市街高架鉄道の建設に携わったドイツ人技師フランツ・バルツァーを招聘し調査立案にあたらせた。東京駅付近のレンガ造りのアーチ式高架橋がベルリンとそっくりなのは、バルツァーと彼の前任者であり、同じくベルリン市街高架鉄道に関わったドイツ人技師ヘルマン・ルムシュッテルの影響である。

環状線でありながら
都心直通の放射線という特徴

 この頃、第4ステップとして田端から池袋まで連絡線を建設する構想が浮上する。これは常磐線の貨物列車を、赤羽でスイッチバックすることなく東海道線方面に直通させる目的の路線だったが、山手線の環状化が大きく進展した。