急進的改革が必ず失敗するワケ…秦の始皇帝が見落とした「たった1つのこと」
【悩んだら歴史に相談せよ!】好評を博した『リーダーは日本史に学べ』(ダイヤモンド社)の著者で、歴史に精通した経営コンサルタントが、今度は舞台を世界へと広げた。新刊『リーダーは世界史に学べ』(ダイヤモンド社)では、チャーチル、ナポレオン、ガンディー、孔明、ダ・ヴィンチなど、世界史に名を刻む35人の言葉を手がかりに、現代のビジネスリーダーが身につけるべき「決断力」「洞察力」「育成力」「人間力」「健康力」と5つの力を磨く方法を解説。監修は、世界史研究の第一人者である東京大学・羽田 正名誉教授。最新の「グローバル・ヒストリー」の視点を踏まえ、従来の枠にとらわれないリーダー像を提示する。どのエピソードも数分で読める構成ながら、「正論が通じない相手への対応法」「部下の才能を見抜き、育てる術」「孤立したときに持つべき覚悟」など、現場で直面する課題に直結する解決策が満載。まるで歴史上の偉人たちが直接語りかけてくるかのような実用性と説得力にあふれた“リーダーのための知恵の宝庫”だ。
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秦の統一を可能にした「法家の改革」
――血縁を断ち、国家をつくる
なぜ最強の帝国は15年で消えたのか?
壮大な国家・秦は、統一からわずか15年後の紀元前206年に滅亡してしまいます。なぜ、これほど強大だった王朝があっけなく崩壊してしまったのでしょうか。その原因は、主に三つあります。
急進的すぎた「郡県制」の代償
①郡県制の急速な拡大――伝統の否定が招いた反発
秦が滅びた原因の一つは、中央集権制度の急激な全国展開でした。もともと秦では、商鞅の改革により「県制(地方の官僚支配)」が導入されていました。これを始皇帝は、中国統一後に「郡県制」として全国に適用し、すべての地方で中央から派遣された官僚が直接統治する制度としたのです。
しかし、この制度は他の6国の人々にとっては、伝統社会の破壊行為に映りました。特に、地域に根ざした貴族・豪族たちが持っていた氏族的な権威が無視されたことで、抵抗と反感が一気に噴き出したのです。
民を疲弊させた「国家プロジェクト」の影
②過剰な対外戦争と土木工事――民衆の限界を超えた負担
さらに、秦は統一後すぐに二正面での対外戦争を開始します。
・南方では、百越(現在の広西・ベトナム北部)を征服すべく遠征を展開
これに加え、国内では壮大な土木工事も強行されました。
・国家の威信を示すための巨大宮殿・阿房宮の造営
・道路、運河、陵墓といったインフラ事業
これらの事業には膨大な労働力と資源が必要とされ、農民や庶民に重税・徴兵・強制労働という形での過酷な負担がのしかかりました。
統一で恩恵を受けるはずの民衆が、「統一こそが苦しみの始まりだった」と感じたのです。
カリスマの死と秩序の崩壊
③始皇帝の死後、各地で反乱が続出
こうした支配層の不満と民衆の疲弊は、始皇帝の死(紀元前210年)を契機に爆発します。各地で反乱が続出し、次第に秦の統治は瓦解。わずか3代・15年で王朝は崩壊しました。
廃墟から立ち上がる「漢」の教訓
秦滅亡後、項羽と劉邦による楚漢戦争が勃発。最終的に勝利した劉邦は、中国を再び統一し、漢王朝を建国します。
劉邦は秦の失敗を教訓として、柔軟な政策を実施しました。
・匈奴とは和平外交を採用
こうして、漢は中央と地方のバランスをとりつつ、約400年続く安定した王朝を築いたのです。
「急ぎすぎた」帝国の末路
秦は、「戦争に勝つ仕組み」では抜きん出ていました。しかし、「国を治め続ける仕組み」には柔軟性と余白が必要であることを見落としていたのです。
●無理を強いた動員
●早すぎた中央集権化
これらの行き過ぎが、結果として国を短命に終わらせることになりました。



