もっとも、国家権力に代わる別の権力による制限はあるように感じています。
マーケット至上主義という権力です。
要は、売れるか売れないか。それだけが価値や判断の基準になってしまうと、内容や表現にまで制限がかかってしまいかねません。
「うーん、15~17歳のターゲット層が読みたいテーマとずれてるんですよね。設定から変えましょうか」
正解はマーケットのほうにあって、そこに合わせにいく。そこでは、つくり手の感覚があとまわしになってしまいます。
あるいは。
「SNSで30万フォロワーがいるので、この人の本、出しましょう」
フォロワー数だけで、発刊の可否を決める。これでは、作品の良し悪しを判断するという編集者がもっとも鍛えないといけない眼力を自ら放棄するにひとしい。
表現の自由を優先した
岩波の出版人としての覚悟
検閲であれ、マーケット至上主義であれ、表現の自由が制限されるとき、問われるのは、編集者であり、出版社のあり方です。
表現のほうに身をおきつづけられるか、それとも忖度して制限するほうを優先するか。
これを考えるにあたり、かつて戦争下でどのようなことがあったか、一例を挙げます。
岩波茂雄が津田左右吉の書籍を出したことで不敬罪に問われたときのことです。1939年から何年にもわたり、国家主義者たちから苛烈な批判を受けます。
挙国一致で戦争に臨んでいるのに、東洋そのものを否定する津田の説は、「東亜の新秩序」を否定するものである、また、「皇室の尊厳を冒涜する」ため、許されないと判断されます。その津田の記事を掲載し、発刊した版元の岩波も、裁判所に出頭することになりました。
裁判では、「出版は岩波の意志によるものなのか、津田の依頼によるものなのか」、追及されます。岩波は、「津田の人格と学者としての態度に惹かれた」と述べ、「著者への信頼から内容についての疑念を抱いたことはなく、また問題になるまでは中身を一度も読んだことがなかった」(中島『岩波茂雄』)と語ります。
ここはとても興味深い指摘です。
中身は読んだことがなかったと岩波は言う。裁判ですので、すこしでも不利な言質を取られないように、中身は知らなかったと発言した。そう推測されます。とはいえ、「読んだことがない」と明言したわけです。同時に、発刊に値すると断言もした。
これはどういうことを意味するのか?
私の捉え方はこうです。







