ズキンと左肩に痛みが走るのを覚えながら、そっと振り返って見ると、熊は倒れては起き上がり、岩に当たっては倒れ、川に転げ落ちては岸に上がり、水の中と雪の上とを問わずのたうち回ったあげく、崖に頭を打ちつけてひっくり返り、またもや立ち上がっては流れに倒れ込むといった、手の付けられぬ暴れようで、それでもなお、沢造の姿を求めてか、そこらを無闇矢鱈に走り回っていたが、もはや目が見えなくなっているのか、まもなくよろよろと足をもつれさせ、断崖の下に頽れてしまった。

 沢造は身じろぎもせず、熊の断末魔の喘ぎを岩の隙間から冷たい目で眺めていた。沢造にしてみれば、自分の猟場に無断で入り込み、しかも突然襲ってくる熊などに、同情すべき点は何ひとつなかったし、どんな因果があるにせよ、こんな目に遭わされるのはまったく心外であった。

赤く染まった雪の上で熊は絶命
あやうく命拾いをした沢造

 やがて熊は、赤く染まった雪の上にゆっくりと仰向けになり、四肢をだらりと開いてしまった。これが、冬ざれの山をさまよった末にようやく安息の地を見出したばかりの銀毛(編集部注/ほぼ全身が銀白色の毛に包まれているため、沢造はこう呼んでいた)の最期であった。

 岩の隙間から出た沢造は、熊の体から刺刀を抜きとって、雪で血糊をこすり落とし、さらに冷たい川の水で刺刀や手に付いた血を洗い流した。狭い沢間には、すでに夕暮れの気配が忍び寄っていた。荷物を背に担ぎ、黄テンを腰に下げた沢造は、銀毛をそのままにしてイワナ沢を後にした。

書影『羆吼ゆる山』(今野 保、山と渓谷社)『羆吼ゆる山』(今野 保、山と渓谷社)

 イワナ沢からベツピリカイの小屋までは200メートルあまり、その中途に仕掛けておいた落とし罠に、これまた見事な黒テンが掛かっていた。その黒テンを手にして小屋に戻った沢造は、背負い袋から今日の獲物を出し、土間に並べていった。

 ヤマウサギ3羽、ムジナ2匹、タヌキ1匹、キツネ1匹、テンは黒と黄の2匹を含めて4匹、初日としてはなかなかの好猟である。それに、イワナ沢には予想外の熊もある。熊の処理は明朝に回すことにして、沢造は早速これらの獲物の処理に取りかかった。

 時おり、左肩がズキンと疼いた。腕を動かさずにいれば特に異状は感じられないので、あまり気にはしなかったが、念のため調べて見ると、上衣の肩のところが少し引き裂かれたようになっていた。

 それは、熊の鉤爪が自分の体を掠(かす)めた痕跡と思われた。おそらく、あの岩の隙間に忍び込もうとして身をひるがえした際に銀毛の一撃を受けたのであろう。

 これがもし、まともに肩に当たり、食い込んでいれば、自分は今、ここにこうしてはいない――。