それは、家族内における自分自身の立場を学習し、自分の遊びを継続する喜びと、お母さんの欲求を叶えてあげた場合に感謝されることに対する喜びとを天秤にかけることを学習し、自分自身の遊びを継続することを選ぶようになるからだ。

 同様に、2歳児に対して行なった先ほどの実験を7歳児で行なったならば、2歳児のようにはすすんでドアを開けにはいかないかもしれない。

学習によって矯正されていく
他者への優しい心

 そこには、その後の人生において、「知らない人とむげに関わってはいけない」などと言われることによって、ドアを開けてあげたいという欲求を抑えるように仕向けられていることがあるだろう。

 こうしてヒトは、生来もっていた性善説的人間観を、学習によって修正していく。それは大事なことだ。そうしなければ、お人好しとして他者に食い物にされるだけになってしまうかもしれないからだ。

 しかし、多くの研究によると、ヒトは、まったく見ず知らずの他者に対しても、かなり利他的に振る舞う。見ず知らずの人が溺れそうになっているのを助けて、自らは死んでしまったというような例は、数は少ないとしても必ずあるのだ。

 だから、ヒトは生来他者に優しい存在なのであり、悪があることをあとから学ぶのであって、その逆ではないと私は思うのである。

 しかし、性善説と性悪説を、ここで論じたような、子どもの発達過程から見た「ヒトの本性」ではなく定義することも可能かもしれない。

 赤ちゃんのときにどうだったかにかかわらず、大人としてのヒトの大半が、いわゆる「善いヒト」なのか「悪いヒト」なのか、という問題設定だ。

 もともとどんな赤ん坊として生まれようと、いずれ大人になったとき、人びとの大半は「善いヒト」として振る舞うだろうと考えるか、「悪いヒト」として振る舞うと考えるか、である。

 私は、それは、そのときの社会のあり方による、と答えたい。そして、そのときの社会のあり方に左右されるようなものは、「ヒトの本性」ではないだろう。社会のあり方によって影響されるのは確かだと私も思うが、出発点は「性善説」である。