ソーシャルメディアが一般に広く普及したのは2010年代以降である。その結果、人間同士の関係というものが根本的に変わった。
それまでは、実際に会って、生活のなかで関わる人たちが、自分にとって重要な人たちであった。それ以外のヒトたちは、直接には知らないし、関わりもないし、自分の生活に関係する人たちではなかった。
ところが、ソーシャルメディアが出てきたあとは、状況が一変した。個人は、世界中の誰にでも自分の情報を発信することができる。そして、自分のことなど何も知らない人たちから、それに対する反応を得る。
そもそも、なぜそんなことをしたいのかというのが、じつは私にはわからない。しかし、多くの人びとがソーシャルメディアを使って、それらの反応に一喜一憂しているのが現状である。
だから、基本的にヒトという生物は、自らのことを他者に言いたいし、反応を知りたい生き物なのだろう。それが実際に面と向かって出会う人びとに限られていたのが2000年代までで、それ以後は、IT技術によって相手が無制限に広がったのだろう。
内集団の人間ばかりに見える
フィルターバブルの弊害
そして、多くの問題が起こっている。
1つは、フィルターバブルと呼ばれるものだ。ソーシャルメディアは、自分と似たような意見やアイデアを表明する相手を選択的に次々と表示するようにつくられている。
『美しく残酷なヒトの本性 遺伝子、言語、自意識の謎に迫る』(長谷川眞理子、PHP研究所)
すると、発信者は、その反応に自分と同じような意見をもつ発信だけを受け取るようになる。そこで、世界はおしなべて自分の意見に賛同してくれていると思い込むようになるのだが、それは違う。
同じような意見だけを選別して、その人に届けているシステムがあるのだ。これをフィルターバブルと言う。
こんなことが起こるのは、ソーシャルメディアの技術が、ヒトという生物のもつ本性にすり寄って、搾取するように設計されているからだ。事実、これらの技術の開発者たちは、そのようにして利用者を増やそうとしている。まさに、情報中毒を増やすように設計しているのだ。
自動車が発明され、世の中はずいぶんと便利になった。一方で、交通事故による死亡も増えた。しかし、そのことの反省から、自動車に関する技術はずいぶんと改良されてきた。
同じように、ソーシャルメディアに関する技術も、経験に学んで改良されていくことを願ってやまない。







