ヒトが理性に目覚めたのは
ごく最近にすぎない
私たちヒトが進化の過程で、「我ら」という内集団と「彼ら」という外集団を区別したことは、本当に重要だったのだと思う。
それは、ロシアによるウクライナ侵攻に関する両国の人びとの感情や、米中対立をめぐる国民感情、さらに以前からの「嫌韓」「嫌中」などの感情を見ても明らかではないだろうか。
ヒトの進化環境に対する適応で、協力するのは「我ら」内集団であり、「彼ら」外集団はほとんどの場合に敵であり、殺しても何をしても構わない対象だったのではないか。
人権や民主主義、人道主義という概念が生まれ、たとえ自分とは異なる文化、宗教、信条をもつ人びとであっても、同じヒトなのだから同じ扱いで考えよう、ということになった。
それは、理性による目覚めである。しかし、ヒトの進化過程で刻まれた情動と感情はそれに追いついていない。
そもそも、内集団と外集団の区別をもとに、協力したり殺し合ったりをしてきた200万年に対し、理性による目覚めが起きたのは、たかだか18世紀以降ではないか。ヒトの心の進化から見ればごく「最近」のことなので、理性ではわかっても、感情はついていけないのだろう。
しかし、理性が理解できることをもとに、感情と情動をコントロールして、この社会を少しでも良いものにしていこうと努力しているのが人間である。そうできるのが人間である。私は、それはある程度功を奏してきたし、人間社会は進歩してきたと思うのだ。
ただし、道筋は単純ではなく、進歩が一直線に成し遂げられているとは言えないだろう。
ソーシャルメディアは
内集団と外集団を強烈に区別する
その意味で効果が不明なのが、昨今の情報技術の発展である。さまざまなソーシャルメディアが発明され、瞬く間に世界中に広がった。それによって世界が良くなった部分と、悪くなった部分とのバランスはどうなのだろう?
ソーシャルメディアの発達は、内集団と外集団の区別と差別を解消する方向で役に立っているのだろうか?
私は違うと思う。ソーシャルメディアはいまのところ、かえって社会の分断を助長するように働いている。
それは、ヒトという動物が、もともと内集団と外集団の区別と差別に敏感な動物であり、そのような感情を安易に行動に移せるようにした技術がソーシャルメディアだからなのだ。







