この区間が開業したのは昭和19(1944)年7月1日という戦争末期である。あたかも日本軍が南洋サイパン島で全滅した頃で、いよいよ敗色も濃厚となっていた。

 資材不足は深刻で、鉄道の新規開業は戦争に必要なものだけに絞られており、この奥多摩電気鉄道も奥多摩の日原地区で採れる石灰石を搬出する鉄道として、その大口需要者としての日本鋼管、浅野セメントなどが出資して設立されている。完全に「戦時国策鉄道」であった。

 石灰石はもちろんセメントの原料として不可欠であるから、青梅線は平成10(1998)年まで石灰輸送線として存在感を発揮していた。

 小河内線はその青梅線をダム資材の運搬に使うため、工事現場まで延伸したという形であった。

西武鉄道は役目を終えた
小河内線の再利用を目論む

 国道を跨ぐガードを見に行ってみると、橋桁にはペンキ塗り替えの日時などを記した表示が読める。橋名が「第二水根橋梁」、起点からの位置が「6K467M56」とある。なるほど6.7キロの終点の直前だ。

第二水根橋梁の表示第二水根橋梁の表示。ペンキ塗り替えの記録がある(同書より転載)。

 施行は「墨田塗装工業KK」。ところが塗装年月日が昭和38年12月29日となっているのは興味深い。

 小河内ダムが完成したのは昭和32(1957)年のことであり、その後は休止していたはずなのだが、手元にある昭和47(1972)年度の『私鉄要覧』によれば、専用鉄道の163ページに「西武鉄道」の路線として掲載されている。

 これによれば、昭和38年9月21日に東京都(水道局)より譲り受けたことになっており、ペンキ塗り替えの日付はその3カ月後だ。つまり西武鉄道はこの線路を活用する目的でこの整備を行ったのである。