「都心部に暮らす貧困層の子どもがキャンパスにやってくるサマープログラムに使われることもあれば、先生の収入になることもある。そしてあの年は、売上の3000ドルを使ってコンピュータールームをつくることにしたんだ」
「風変わりな小さな部屋に、1台のコンピューター端末が置いてある。結局は、私たちがあの場所を占領してしまった。あれはなかなかすばらしいものだったよ」
もちろん、コンピューターが「すばらしいもの」だったのは、当時はまだ1968年だったからだ。1960年代は、たとえ大学でも、コンピュータークラブがあるところはほとんどなかった。
さらに特筆すべきは、レイクサイドが購入したコンピューターの種類だ。1960年代当時、プログラミングといえば厚紙のカードに穴を開けることだった。しかしレイクサイドは、生徒たちにそんな気の遠くなるような作業はさせなかった。
幸運はレイクサイドから始まった
最先端技術を学ぶチャンスを掴む
レイクサイドが導入したのは、ASR-33テレタイプと呼ばれるマシンだ。これはタイムシェアリングシステムを備えた端末で、シアトルのダウンタウンに設置されたメインフレームコンピューターと直接つながっている。
「タイムシェアリングという概念自体、1965年に発明されたばかりだった」とゲイツは続けた。「あの学校には、誰かとても先見の明のある人がいたのだろう」
ビル・ジョイは、大学1年生だった1971年に、当時の最先端技術であるタイムシェアリングを使ってプログラミングを学ぶという、またとないチャンスに恵まれた。一方でビル・ゲイツは、まだ8年生だった1968年に、リアルタイムのプログラミングを行うことができたのだ。
その瞬間から、ゲイツはコンピュータールームの中で暮らすようになった。彼を含めた何人かの生徒たちは、この奇妙な新しいマシンの使い方を独学で学んでいった。
当然ながら、ASRが接続されたメインフレームの使用料はかなりの額になる。資金に余裕のあるレイクサイドのような学校でも容易には払えなかった。母親会から提供された3000ドルもあっという間に底をついた。保護者がさらに資金を集め、生徒たちがそれを使い切る。







