「寝たふりをして夜に家を抜け出した。ワシントン大学までは歩いて行けたし、バスでも行ける。だから私は、ワシントン大学にいつも多額の寄付をしているんだ。私がコンピューターの使用時間を大量に盗んでも許してくれたからね」(後年、ゲイツの母親はこんなことを言っていた。「いつも不思議だったんですよ。なぜあの子はあんなに朝起きるのが苦手なんだろうって」)。

 ISI設立者のひとりであるバド・ペンブロークのもとに、テクノロジー企業のTRWから1本の電話がかかってきた。TRWは、ボンヌビル電力事業団がワシントン州南部に設置した巨大な発電所のコンピューターシステムを開発する仕事を、ちょうど受注したところだった。そのため、発電所が使っていたソフトウェアに詳しいプログラマーが、どうしても必要だったのだ。

 当時はまだコンピューター革命が始まったばかりで、このような専門知識を持ったプログラマーを見つけるのは至難の業だった。しかし、ペンブロークはまさにうってつけの人物を知っていた。ISIのメインフレームコンピューターを使って何千時間もプログラミングに没頭していた、あのレイクサイドの高校生たちだ。

 当時、ゲイツは高校の最上級生だった。なんとか高校の教師たちを丸め込み、独立学習プロジェクトという名目で、高校の授業の代わりにボンヌビルで働く許可を取ることに成功した。

 そしてゲイツは、春の間ひたすらコードを書いていた。彼を監督したのはジョン・ノートンという人物だ。ゲイツは後に、ノートンほどプログラミングについて多くを教えてくれた人は他にほとんどいないと語っている。

 8年生から高校を卒業するまでの5年間は、ビル・ゲイツにとってのハンブルク時代だ。あらゆる点から見て、ゲイツはビル・ジョイをもはるかにしのぐチャンスに恵まれてきたといえるだろう。

ゲイツを成功に導いた偶然の連鎖
「世界で50人いたら驚きだ」

 第1のチャンスは、レイクサイドに転入したことだ。1968年という時代に、タイムシェアリング端末を備えた高校は、世界でも稀有な存在だ。第2のチャンスは、学校の母親会に、コンピューターの使用料を払うだけの資金力があったこと。