吉野家が作り上げた牛丼屋のイメージを、もっと広げた
小川賢太郎氏(1999年撮影) Photo:JIJI
それを解く鍵は、ゼンショーの創業者である小川賢太郎氏という人物の、若き日の体験にある。
時計の針を1968年に戻そう。
小川氏は東京大学に入学すると同時に、当時の学生運動、いわゆる全共闘運動に身を投じた。
社会主義革命を目指し、世界から貧困と飢えをなくそうと本気で考えていた青年だったという。資本主義が生み出す格差に怒り、すべての人が平等に満たされる世界を夢見ていた。
しかし、運動は終わりを迎える。それでも、小川氏の胸の中にあった「飢えをなくしたい」という情熱の炎は消えなかった。
革命家を志した青年が次に選んだ戦場は、政治の世界ではなく、ビジネスの世界だった。港湾労働などを経て、弁当屋からスタートし、やがて牛丼というファーストフードにたどり着く。
ここで極めて興味深いのは、小川氏が牛丼を「日本の伝統食」あるいは「職人の味」とは捉えず、「世界中どこでも、誰でも食べられる食事」として、その定義を根本から書き換えたことだ。
かつて吉野家が作り上げた牛丼屋のイメージは、駅前で忙しいサラリーマンがカウンターで急いでかっこむ、いわば「男の食事」だった。「うまい、やすい、はやい」を掲げ、築地市場の職人たちを唸らせたその味は、確かに一つの完成された文化だった。
しかし、小川氏は違った。牛丼にはもっと広い可能性があると見抜いていたのである。その視点の鋭さを物語る言葉が、2014年の東洋経済オンラインのインタビューに残されている。







