その例として一つ。
古代の禅師が出した、ある有名な問題は次のようなものです。
「一個の桃を三人で分けて食べるとする。どう分ければいいのか」
この問題に対して、「それぞれの桃が均等になるように正確に三等分すればよい」とするのが解決になるでしょうか。
では、どのようにすれば、桃を正確に三等分できるのでしょう。定規や計算が必要となるのでしょう。
実は、ここでは、「分ける」のが問題になっているのではないでしょう。だから、「三人で分けて食べる」という問題に、正確な三等分が解決になるとはいえないことになります。
三人で分けるものがリンゴや西瓜(すいか)や梨ではなく、桃だというのが、この問いの禅的なところです。
なぜならば、桃は果実の味が均質ではないからです。一つの桃の中でも甘い部分もあれば、酸っぱい部分もある。それは見かけではわかりません。
果実の量で三分割しても、その味は三分割されない。では、どうすればいいのでしょうか。糖度計などが必要になるのでしょうか。この公案が発せられた古代に糖度計というものはなかったのに?
禅師の答えはきわめてシンプルです。
「無造作に切り分けて、三人で楽しく食べればよい」
この答え方は、問題にかかわる三人のありかたを重視した答えなのです。公平に三等分することなど、問題にしていません。
そうだからこそ、問題と状況を根底から解決しています。
なぜ、禅師はこの問題をあっさりと解くことができたのでしょうか。
状況を、日常の一つの場面と見ていたからです。
そこに、謎も、問題もありません。ただ、一個の桃があり、三人がいるだけです。禅師は、その状況を三等分の問題とは見ることはしなかったのです。状況が少し異なっていれば、どうでしょう。
たとえば、三人のうちの一人が病人。あるいは、疲れている大男、という場合です。
そのときは、どう分けるのだろうか。切り分けた桃に明らかな大小が生まれているでしょう。それであっても、いや、そうだからこそ、平等だというしかないのです。







