なかでも、突き抜けていたのは山下太郎――アラビア太郎と呼ばれた、昭和の実業家だ。

 太郎は札幌農学校(現・北海道大学)時代に、クラーク博士の開拓精神を身につけ、起業家を志した。

 20代のときに発明したオブラートで、会社を興す。海外貿易業にも進出し、第一次大戦の需要拡大を受け、たちまち政財界から一目置かれる商人となった。

 とにかく太郎は、金を稼いだ。そして使いまくった。江蘇米(こうそまい、中国米)や鮭缶の輸入業に乗り出し、国際法の不備などで苦境に陥るも、新規事業への投資を続けた。

 自分の会社の従業員など、周囲への金払いは極めて良かった。加えて客人をもてなす才覚も抜群。いまで言う陽キャ&コミュ力お化けの青年だった。

「あぶないからおもしろい」
太郎を成功に導いた投資計画とは

 30代になった頃、政府筋の依頼を受け、満州鉄道の住宅事業に参画した。現代のサブリースの先駆けとなるビジネスを展開し、ここで巨万の富を得る。彼が「満州太郎」とも呼ばれる所以だ。

 ところが第二次大戦の終焉と共に、太郎の在外資産のほとんどは没収されてしまった。またも貧乏に逆戻りだ。

 大金持ちと極貧を行き来する、波乱の人生だが、太郎はなおも挫けない。

「あぶないから、人生はおもしろいのじゃないですか!」

 そのように豪語していた太郎に、人生最大の投資プランが持ち上がった。

 敗戦後、世界から不利な貿易条件を強いられていた日本の未来を憂え、アラビアの石油採掘事業に乗り出した。満を持して、国家事業への挑戦だ。太郎は人脈をフルに活かし、政府の金を取りつけて、アラビアへ飛んだ。太郎自身はもちろん、日本政府に石油採掘のノウハウは皆無だった。有効な交渉ルートも、プランB以降を用意する資金もない。

 事業は綱渡り。そのうえアラブ諸国の独特なルールと、日本の動きを察知した米英の石油企業からの横やりなど、トラブルは続出した。事業計画は、何度も破綻の危機に陥った。

 だが太郎は、諦めなかった。実業家人生の集大成として、破産のリスクをすべて引き受け、投資を続けた。そしてついに、クウェートやサウジアラビアの国王と、直接交渉のテーブルにこぎ着けたのだ。