プレストウコウが好きだったわたしは、森牧場のすぐ隣にオグリキャップがいるだけで、なんとなくうれしかった記憶がある。

 種付けシーズンになるとスポーツ紙や週刊誌が騒ぎはじめる。

 3月7日に試験種付けをすませると「オグリ初体験」(『日刊スポーツ』1991年3月8日)、最初の種付けが終わると「花嫁第1号は“隣のお姉さん”」(『中日スポーツ』3月13日)という見出しでスポーツ紙が報じれば、週刊誌は「オグリキャップの筆おろし」(『週刊文春』3月28日号)、「オグリキャップ1000万円童貞喪失記」(『週刊ポスト』3月29日号)、「オグリキャップ“ボク結婚しました”『初夜』はたった6分間!」(『女性自身』4月2日号)というようなタイトルの記事を掲載するなど、下から下への大騒ぎだった。

オグリキャップの産駒たちは
親を超えることはできなかった

 種付けをはじめたころも大騒ぎだったが、最初の産駒が誕生すると取材攻勢はさらに大きくなった。

 1992年2月9日、オグリキャップの最初の仔が誕生した。芦毛の牡馬で、母親はいちばん最初に種付けした“隣のお姉さん”ヤマタケダンサー。優駿スタリオンのすぐ近くにあるヤマタケ牧場の牝馬である。

「あのときは毎日何十人ものマスコミがきて仕事にならなかったな」

 ヤマタケ牧場の場主、山田久は当時を思いだして言った。うまれる何日も前から多くの記者やカメラマンが牧場にかよいつづけて、うまれたらさらに多くのマスコミがやってきた。

 日本でもっとも有名になった仔馬は近藤俊典の所有馬となり、オグリワンと名付けられた。廐舎はもちろん栗東トレーニングセンターの瀬戸口勉廐舎である。

 オグリワンは2歳から9歳まで走り、中央と地方で109戦7勝(うち中央19戦2勝)と、オグリキャップの息子らしくタフに活躍した。2歳の夏に小倉3歳ステークス(当時)で2着になり、父がでられなかった皐月賞(16着)とダービー(17着)にもでた、りっぱな孝行息子だった。