都状の史料的性格からして、この記述は本人の自筆、または本人の確認を得て記したものであり、信憑性が高い。
したがって、翌年正月に死去した秀長の年齢は、当時の年齢の数え方(数え年)に基づくと52であり、その逆算から生年を通説通り、天文9年と考えて問題ない。秀吉の3歳下の弟ということになる。
木下弥右衛門についての
正確な史料は残っていない
秀長の出生については、生年以外は、はっきりとしたことが分かっていない。特に秀吉と父親が同じかどうかについては、歴史的に議論の的となってきた。
秀吉・秀長の父親について記した最も古い史料は、寛永2年(1625)に成立した小瀬甫庵の『甫庵太閤記』である。『甫庵太閤記』には、秀吉・秀長の父親は尾張国愛知郡中村の住人で、織田大和守(清須織田家、達勝ないしはその後継者の信友)に仕えた筑阿弥であると記されている。
一方、江戸幕府の旗本であった土屋知貞が記した『太閤素生記』では、秀吉と姉の「とも」(瑞龍院)は木下弥右衛門の子であり、弥右衛門の死後、母の「なか」が筑阿弥(竹阿弥)と再婚し、秀長と妹の朝日(南明院)が生まれたとされている。
土屋知貞は尾張中村の代官の娘である養母(秀吉と同世代)から秀吉の逸話を聞いたというから、物語である『甫庵太閤記』よりも信憑性が高いと考えられてきた。ゆえに、異父説が有力であった。
また寛文4年(1664)に100歳で没した京都の儒医、江村専斎の談話を筆録した江戸前期の史料『老人雑話』によれば、賤ヶ岳合戦において秀吉は秀長の失態に激怒し、「身(自分)と種ちがったり」と弟を面罵したという。これも異父説である。
ただし、こうした江戸時代の聞書(聞き取った情報を筆録したもの)の信憑性については慎重な検討が必要である。
『太閤素生記』は、秀吉実父の木下弥右衛門が信秀の鉄砲足軽だったとする。だが、瑞龍院や秀吉が生まれた頃の信秀の居城は勝幡城(愛知県稲沢市・愛西市)であり、弥右衛門が近隣の清須城主・織田大和守ではなく遠方の信秀に仕えたというのは不自然である。







