この事態を受け、太閤秀吉は同年8月、徳政令を発布し、「利息つきの金銀米銭の債務を全て帳消しにする」と命じた。同年正月に秀長が病没して養子の秀保が後を継いでいるので、この徳政令には当主交替に伴う代替わり徳政(善政)の意味合いもあったのだろう。

 しかし秀吉の命令が下されたにもかかわらず、翌年の天正20年には再び井上源五による「金借し催促」が強行され、奈良の町人たちはさらなる苦境に立たされた。井上源五は徳政令発布後も南京奉行を辞任せず、町人に対して高利の貸し付けを続けていたのである。

秀長の死後、部屋から
莫大な金銀が見つかった

 窮地に陥った町人たちは大坂へ赴き、秀吉の側近である木下吉隆や山中長俊に直訴した。

 その訴状では、井上源五が自身の資産を「大光院様(秀長)の御金」と名付けて、過大な利息をつけて強制的に貸し付けることで私腹を肥やしている事実が告発されていた。

 町人たちの直訴は太閤秀吉によって認められたが、秀吉が朝鮮出兵の拠点である肥前名護屋城に戻ってしまったため、今度は京都に呼び出され、関白である豊臣秀次の下で改めて審理が行われた。

 最終的に一連の騒動は、金商人は処罰されたものの、不正を働いたとされる井上源五にはお咎めなし、という形で決着した。豊臣政権は全ての責任を金商人に押し付けて、自分たちの失政は認めなかったのである。

『真説 豊臣兄弟とその一族』書影『真説 豊臣兄弟とその一族』(呉座勇一、幻冬舎)

 このように、「ならかし」は秀長領国の財政を支える手段として機能する一方で、奈良の町人に大きな負担を強い、社会不安を引き起こした。

 関連史料を見る限り、「ならかし」は井上源五という悪徳奉行の個人的な不正ではなく、生前の秀長が主導した財政政策である。秀長の政治責任はまぬがれない。

 さて『多聞院日記』によれば、秀長が亡くなると、莫大な財産が遺されたという。すなわち、金子は5万6000枚あまり、銀子は二間四方の部屋に山と積まれ、銅銭にいたっては何万貫あるか見当もつかないほどであった。

 秀長の蓄財は、「ならかし」のような民衆からの搾取によって実現したと考えられよう。「ならかし」事件は、秀長の温厚篤実なイメージの裏に隠された収奪者の顔を浮き彫りにするものである。