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豊臣秀吉といえば、農民出身ながら天下統一を成し遂げた人物として愛されているが、そもそも農民でないとしたら……。実は、秀吉にまつわる資料は脚色された記述が多く、信頼に値しないものが少なくない。史実を丁寧に見ていくと、秀吉の意外な出自が浮かび上がってきた。※本稿は、歴史学者の呉座勇一『真説 豊臣兄弟とその一族』(幻冬舎)の一部を抜粋・編集したものです。
藤吉郎は木下姓を
持っていなかった!?
一代で天下人に成り上がった豊臣秀吉の名前を知らない日本人はいないだろう。だが、彼の出生は謎に包まれている。
秀吉の父親に関する一般的なイメージは次のようなものであろう。秀吉は天文五年(1536)に誕生した(実際は天文6年)。秀吉の父は木下弥右衛門である。
弥右衛門は織田信秀(信長の父)の鉄砲足軽だったが戦場で負傷し、尾張国愛知郡中村(中村のうち、中々村。現在の愛知県名古屋市中村区)で百姓となった。弥右衛門は「なか」(秀吉の母、のちの天瑞院)と結婚し、「とも」(秀吉の姉、のちの瑞龍院)と秀吉の二子をなしたが、秀吉が8歳の時に亡くなった。
そして弥右衛門の死後、なかは信秀の同朋衆(貴人に近侍する芸能民)である筑阿弥(竹阿弥)と再婚し、秀吉の弟の秀長と妹の朝日(のちの南明院)を産んだという。
上の記述は、江戸時代の延宝4年(1676)に刊行された『太閤素生記』に基づく。同書の著者である土屋知貞は尾張中村出身の養母から秀吉の逸話を聞いたというから、それなりの信憑性はあると考えられている。
さて『太閤素生記』に従えば、秀吉の父である弥右衛門は「木下」という名字を持っていた。







