奈良の町人を借金づけにして搾取…温和で誠実な人柄だったと評される豊臣秀長の裏の顔写真はイメージです Photo:PIXTA

大河ドラマ『豊臣兄弟!』の主人公・豊臣秀長は、兄とは対照的に「温厚な常識人」として描かれているが、その実態は真逆である。実は、統治を任されていた奈良で、自殺者が出るほど苛烈な財政政策を行なっている。秀吉よりも残酷かもしれない、秀長の真の姿とは?※本稿は、歴史学者の呉座勇一『真説 豊臣兄弟とその一族』(幻冬舎)の一部を抜粋・編集したものです。

謎が多い秀長の出自と
裏の顔を暴く

 才智にあふれるが、その強烈な上昇志向ゆえに、どこか危うい秀吉を、陰から支えた温厚で常識人の弟。それが豊臣秀長に対する一般的なイメージであろう。

 こうした秀長像は、小説やドラマによって流布したもので、必ずしも多数の史料的根拠に基づくものではない。本稿では秀吉の天下取りを支えた名補佐役として知られる秀長の実像に迫りたい。

 江戸時代末期に編纂された『系図纂要』によれば、秀長は天文9年(1540)3月2日に尾張国愛知郡中村で生まれたとされる。天正19年(1591)正月22日に死去した秀長の享年は、江戸時代に編纂された諸書では「五十二」と見え、これらの史料でも逆算により天文9年生まれということになる。

 しかし、大和興福寺(奈良市)の塔頭・多聞院の僧侶であった長実房英俊が記した『多聞院日記』では、享年は「五十一」となっている。ところが、奈良国立博物館の所蔵文書で、天正18年10月の羽柴秀長都状がある。

 この都状は、重病の状況にあった秀長の平癒を期し作成されたもので、秀長が「羽柴大納言豊臣朝臣秀長」として記載されるなど、同時代のものと判断される。同都状には「秀長五十一」との記述が見られる。