のちに織田信長が清須城を本拠とするので、信秀が清須城を本拠としていたと誤認した土屋知貞が、秀吉が信長に仕えたことから逆算して、弥右衛門が信秀に仕えていたことにしたのだろう。
秀吉と秀長は本当に
「種ちがい」だったのか?
秀吉・秀長の父親に関する『太閤素生記』の記述は、あまり当てにならない。
この問題を考える上で重要な史料は、東京帝国大学の史料編纂官だった渡辺世祐が、昭和14年に刊行した『豊太閤の私的生活』で「京都瑞龍寺書出しの木下家系図」として引用する「瑞龍寺差出」(『大日本史料』第十二編之五、一八頁)であろう。瑞龍寺は秀吉の姉である瑞龍院の菩提寺である。
同史料には、瑞龍院の父として法名「妙雲院殿栄本」を名乗る人物が見られ、その没年は「天文十二年癸卯一月二日逝去」とある。この「妙雲院殿栄本」なる人物が『太閤素生記』のいう木下弥右衛門にあたるのか、筑阿弥にあたるのか、はたまた両人が同一人物なのか、定かではない。
ただ、天文12年に死去と記載があることから、天文9年生まれの秀長の父は、瑞龍院・秀吉の父と同一人物と見て良いだろう。
自殺者が出るほど厳しかった
秀長の高利貸し政策
秀長は温和で誠実な人柄だったとしばしば評される。しかし、その裏側には冷酷な一面も存在した。その象徴的な例が、秀長の領国で展開された「ならかし(奈良貸し)」と呼ばれる民衆からの搾取である。
秀長が治めた大和・紀伊・和泉の領地では、財政の安定を図るため、奈良の町人に対する金銀や米銭の貸し付けが制度化されていた。この「ならかし」は、単なる商取引ではなく、大名権力を背景にした強制的な貸し付けであった。
制度の運営は秀長の家臣で南京(奈良のこと)奉行の井上源五によって管理され、金商人を通じて貸し付けが行われたが、これに伴う高利の返済が町人たちを苦しめた。
『多聞院日記』は、天正19年(1591)、「ならかし」の厳しい取り立てにより、町人が金商人を殺害したり、自殺や一家心中に追い込まれたりする事件が起きていると記す。過酷な返済に耐えかねた町人たちが一揆を起こすとの噂が広がるほどだった。







