秀次謀反の事実は
一次史料には残っていない

 このように、秀吉の次の天下人の地位を約束されていた秀次だが、周知の通り、文禄4年(1595)には秀次は自害に追い込まれ、一族も皆殺しになった。

 この秀次事件は江戸時代から現代に至るまで大きな歴史的関心を集めてきたものであり、特に失脚の要因になったとされる秀次の「謀反」や「乱行」に関する諸史料の記述は、多くの歴史小説や歴史ドラマの材料となってきた。

 しかし、これらの記述がどの程度史実に基づいているのかを入念に検証する必要がある。

 まず、秀次は「謀反」の罪で処分されたと一般に考えられている。

 だが、当時の一次史料を検討すると、豊臣政権が公式に秀次の「謀反」を認定した事実は確認されておらず、諸大名に対しても「関白相届かざる子細これある」(関白に問題があった)としか説明していない。

 秀吉の奉行である石田三成らが吉川広家に宛てた書状にも「不慮の御覚悟」といった曖昧な表現が見られるのみで、秀次の問題行動を具体的に非難していない。

 後世においては秀次の不適切な言動が「謀反」と結びつけられることになるが、謀反うんぬんは同時代的には噂に留まるもので、当時の記録からは秀次の野心を読み取れない。

 たとえば、山科言経の日記『言経卿記』には「昨日殿下禅定(秀次)於高野山御腹被切云々、太閤ヨリ被仰付云々、言語道断事也、御謀叛必定由風聞也」と書かれており、秀次の謀反はあくまで「風聞」、つまり噂にすぎないと記している。

 リアルタイムで記録された一次史料で、謀反を事実と捉えているものは存在しないのだ。

秀次には謀反する隙も
メリットも存在しない

 仮に秀次の謀反の意思が明らかならば、秀吉は証拠を挙げつつ謀反計画の内容を大々的に宣伝し、秀次処分の正当性を強調するはずである。具体的に説明できないということは、謀反計画そのものが虚構なのではないだろうか。

 加えて、秀吉が秀次に補佐役として付けていた田中吉政・山内一豊・中村一氏らは、秀次に連座するどころか、むしろ秀次切腹後に加増されている。もし秀次の謀反が事実ならば、秀次の謀反計画に気づかず、秀次を諫めなかった家老衆の監督責任は重大である。