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豊臣秀吉の後継ぎとして関白に就いた秀次は、ある日突然「謀反人」とされ切腹に追い込まれた。その処罰は本人にとどまらず、一家皆殺しにまで及んだ。秀吉最大の汚点とも言われる秀次事件だが、よくよく考えるとおかしな点だらけだ。謀反にも関わらず切腹を許したのはなぜか、秀吉の死期が迫るなかそもそもそんなリスクを冒すのか……。数々の疑問を追っていくと、ある1つの新説が浮かび上がってきた。※本稿は、歴史学者の呉座勇一『真説 豊臣兄弟とその一族』(幻冬舎)の一部を抜粋・編集したものです。
豊臣秀吉の後継者は
秀次に決定していたが…
天正19年正月に秀長が病没し、さらに同年8月に秀吉の唯一の男子であった鶴松が死去し、秀吉の後継者が不在になった。
秀吉には養子として秀俊(のちの小早川秀秋)がいたが、秀俊はまだ数え年で10歳にすぎなかったため、一門衆のうち最年長の秀次が、ただちに新たな後継者に立てられ、8月9日には秀吉から豊臣家の家督を継承した。
この際、秀次が秀吉の養子となったという事実は史料上確認できず、あくまで甥として家督を譲られたと判断される。
豊臣家の新家督としての威厳を高めるため、秀吉は秀次の官職を急速に昇進させる。秀次は同年11月28日に権大納言に任官して、徳川家康に並んで諸大名筆頭の官職を獲得した。次いで12月4日に内大臣に任官し、ここに秀次は家康ら諸大名を超越して、秀吉後継者の地位を確立した。
そしてついに12月28日、秀次は関白に就任した。秀次の関白就任の背景には、「唐入り」(中国大陸を治める明帝国の征服)を見据えて、秀次に国内統治の権限を徐々に委譲していこうという秀吉の意向があったと考えられている。







