にもかかわらず、彼らが加増されたのは、秀次が無実であることを知りつつも秀吉の考えを忖度して秀次を擁護せず、むしろ秀次抹殺に荷担した功績が評価されたからだろう。

 さらに、切腹は武士にとって名誉ある死であり、もし秀次が本当に謀反を起こそうとしたのであれば切腹は許されず、斬首や磔など、より重い処罰となるはずである。斬首に値するような罪状はなかったため、切腹の強要に留まったと考えるのが自然だろう。

 そもそも秀次が謀反を起こすなど、およそ常識では考えられない。山内一豊・中村一氏といった秀吉子飼いの武将がお目付役として秀次の近くにいるのに、どうやって謀反の密議を行うのか。

 仮に秀次が中継ぎの関白という処遇に不満を持っていたとしても、秀吉への反逆などという危ない橋を渡る必要はない。既に高齢の秀吉が亡くなるのを待てば良いのである。

 こうした状況を考慮すると、秀次は冤罪だったと結論づけられる。秀次事件は、愛児秀頼に天下を譲るために秀次を邪魔と感じた秀吉の謀略であろう。

切腹と一家皆殺しでは
処罰のバランスが取れていない

 けれども、以上で紹介した通説では十分に説明しきれない謎がある。

 豊臣秀次の切腹後、秀吉は秀次の妻子・侍女・乳母に至るまで皆殺しにしている。幼い姫も容赦なく斬首するという残酷さは明らかに謀反人の関係者に対する処罰である。

 秀次に切腹を許し、秀次の近親者は斬首するという秀吉の処罰にはチグハグな印象を受ける。

 また、7月12日に秀吉が高野山に出した命令は、秀次の幽閉であった。すなわち秀次の世話をする者を限定し、肉親縁者との接触を断ち、見舞いを禁じる、というものである。

 すぐに切腹させるつもりなら、監禁方法について細かく指示する必要はないように思われる。

 ちなみに小瀬甫庵の『甫庵太閤記』には、五奉行が高野山に出した秀次を切腹させよとの命令書が収録されているが、秀吉が切腹を命じたとする一次史料は残っていないため、甫庵の創作と考えられる。