だが太田牛一が記した『大かうさまくんきのうち(太閤さま軍記のうち)』によれば、秀次の高野山入り後の7月13日、白江備後守・木村常陸介ら秀次の家老たちが切腹に追い込まれており、高野山追放で終わりにせず、さらに秀次を圧迫しようとする秀吉の意思が見て取れる。
秀次が謀反を起こそうとしたという事実がない以上、秀吉が政権ナンバー2の秀次に切腹を命じるのは困難であったと思われる。
『真説 豊臣兄弟とその一族』(呉座勇一、幻冬舎)
ゆえに秀吉は秀次を精神的に圧迫し、秀次が自ら切腹するよう仕向けたのではないだろうか。どんな形であれ秀次が死んでしまえば死人に口なしで、後はどうとでもストーリーをでっち上げることができる。
確かに豊臣秀吉は、亡き母の菩提寺を血で汚したくはなかっただろう。しかし、その大政所(編集部注/秀吉の母・なかのこと)を徳川家康に人質として差し出したこともある秀吉である。秀吉にとって、秀次を確実に抹殺することの方が重要であり、そのためなら手段を選ばないだろう。
矢部氏の議論は、「秀次は本当は無実なのに、秀吉がこのような異常な殺戮を行うのはおかしい。何か理由があるはずだ」という先入観に依拠しているように思われる。これまた、秀吉を陽気で明るい人間と説く「人たらし」神話の影響であろう。
けれども、秀吉はもともと異常に残虐な人間なのであり、全てを秀吉の陰謀と考えた方が整合的に理解できるのである。







