秀吉に秀次の命を奪う
意図はなかった!?

 この残された疑問を解消しようと新説を提起したのが、矢部健太郎氏(編集部注/歴史学者)である。矢部氏は、秀次が切腹した場所は、秀吉の生母である大政所の菩提寺として秀吉が寄進した高野山青巌寺であることに注目した。

 母親孝行で知られる秀吉が母親の菩提寺で秀次を切腹させるとは考えられない、というのである。そして氏は、秀頼早世の可能性も考慮して、生きたまま秀次を高野山に拘留しておくのが秀吉の意思であった、と主張したのである。

 ところが、謀反の疑いで高野山に追放された秀次は、身の潔白を示すために切腹した。

 事実、天皇に仕える女官が記した『御湯殿上日記』は、「秀次が無実を証明するために切腹した」との噂を書き留めている。謀反人の汚名を着せられたまま生き長らえることは、秀次には耐え難かった、ということである。

 母の菩提寺を血で汚された秀吉は激怒し、秀次の切腹を「謀反に対する処罰」と位置づけるため、秀次の妻子を苛烈に処刑した。秀吉に対する抗議の切腹という評判が広まってしまっては、秀吉の権威に傷がつくので、秀吉は秀次を謀反人として扱うしかなかった、というわけだ。

 つまり矢部説は、秀吉からの命令によってではなく、秀次が勝手に切腹したという自発的切腹説である。

 では、なぜ秀吉が秀次に切腹を命じたとする話が人口に膾炙したのか。

 実はこの話は『甫庵太閤記』など江戸時代の軍記・物語を通じて流布した。これらの後世の編纂物では石田三成の讒言が強調されており、関ヶ原合戦で徳川家康に敵対した三成をことさら悪く描くために秀次事件が利用された、と矢部氏は推測している。

死人に口なし状態は
秀吉にとって都合がいい

 秀吉は秀次の命を取るつもりはなかった、という新説はなかなか興味深いが、疑問も残る。

 矢部氏は、秀頼が夭折する可能性を考慮して秀次を「保険」として残すのが秀吉の考えだったと説くが、一度謀反の嫌疑を受けた者が秀吉後継者に復帰するという展開は現実的でない。

 秀吉にしてみれば秀次の政治生命を奪えば十分であり、生物としての命を奪う意図はなかった、という意見もあるかもしれない。