日産自動車とルノーの交渉担当者がパリに集結した貴重な一枚。左から5人目が筆者、6人目が塙社長、7人目がルノーのシュバイツァーCEO。1998年9月11日撮影 写真:筆者提供
「日産自動車が危ない」。その一言から、全てが動きだした。バブル期の過剰投資で巨額の負債を抱え、資金繰りは限界に追い込まれていた。外資との提携をまとめられなければ、1999年3月末をもって日産は消滅する。残された時間は、わずか20日。ダイムラーの撤退、ルノーとの綱渡り交渉、徹夜続きの決断――。そして迎えたルノーとの調印式。その瞬間、両社の力関係には静かに、しかし決定的に変わった。連載『志賀見聞録 自動車産業の半世紀とミライ』の第2回【過去編2】では、交渉の最前線に立った当事者だけが語れる、極秘交渉の舞台裏を明かす。(日産自動車元COO〈最高執行責任者〉 志賀俊之)
>>第1回【過去編1】「ゴーンさんが羽田空港で逮捕されたらしいです(2018年11月19日)」から読む
本社への栄転で胸を弾ませるも
すでに日産は赤字に沈んでいた
「日産(自動車)が危ない。無理な借金はやめておいた方が良いぞ」
先輩社員が私を会議室に呼び、深刻な表情でそう忠告してくれた。
私が5年半のインドネシア・ジャカルタ駐在を終え、日産自動車の企画室に着任したのは1997年3月のことだ。海外駐在から本社の経営中枢部門への異動であり、帰国後の新居探しに胸を弾ませながら、その話をたばこ部屋でしていた。その、まさに直後の出来事だった。
「日産が危ない」
その言葉が頭から離れなくなり、会社の実態を正確に把握しようとさまざまな経営資料に目を通した。そして、徐々に現実を理解し始めた。
日産はバブル期に積極的な設備投資に突き進み、有利子負債は売上高の約半分にあたる3兆円にまで膨らんでいた。そこへバブル崩壊が直撃する。過剰な生産能力、過剰な人員、そして過剰な借金――。三つの過剰が一気に噴き出したのだ。
当時は単独決算での開示が中心で、実態は見えにくかった。しかし連結ベースで見れば、92年以降、当期純利益はすでに赤字基調に沈んでいた。その厳しい現実を、私はようやく理解し始めていた。







