自分の年表をニュースと併記して書くと、もはや日本史の資料のようだ。
もう、そんなに生きてしまったのか……。孔子は「五十にして天命を知る」と言った。
とんでもない話だ。
私は何も成し遂げていないし、何者でもない。人生の終わりが見えてきているのに、まだ何もしていないのだ……。
しかし、まぁ、人間の心というのは良くできたもので、51歳の誕生日には、そんなことには、もうすっかり慣れてしまって、何とも思わなくなった。
そして、なんだかんだで、もう60歳になろうとしている。
後輩たちが40歳になったときに、50歳になったときに、心落ち着かずにいるのを見ると、「そのうち慣れるから……」と言いたくなる。
人間も植物も節目があるから
強く生きていける
60歳になれば還暦である。
70歳になれば古希、77歳は喜寿、80歳は傘寿、88歳は米寿、90歳の卒寿、99歳の白寿、100歳の百寿と、人生の節目となる年齢は続く。
そのたびに、私たちは、人生について悩み、考えて、そして忘れてしまうのだろう。
人はこうして年齢を重ねていくのだ。
植物にも節目がある。
たとえば、竹には節目がある。竹は節目がしっかりしている。だから、竹材はとても丈夫である。それは節があるからなのだ。
本当は、竹は空っぽで軽い。しかし、節があるから、こんなにもしっかりしているのだ。
しつこいと思われている雑草の中にも、茎に節目のあるものがある。
節のある雑草は、抜かれたり、ちぎれたりしても、節から根を出し、新しい芽を出してくる。節が、再び成長を始める起点となっているのである。
植物の成長は、節目があるから強いのだ。
人生にも節目がある。
生まれてからはお七夜、お食い初め、初節句などの通過儀礼がある。これらの通過儀礼はすべてお祝いだ。元気に過ごしていることをお祝いしているのである。
成人式まで祝ってしまうと、大人の通過儀礼は面白くない。何しろ「厄年」という注意喚起の儀礼だけなのだ。
そして、60歳になって還暦というお祝いと厄年が両方来た後は、古希も傘寿もすべてお祝いしかない。
もう厄年はない。
子どもたちと同じように、元気で過ごせていれば、それで良いということなのだ。
まぁ、年を取ると子どもに返るって、よく言うよね……。







