もし神のような存在が目の前にあらわれ、お前の心と身体を20代にもどしてやろうと囁かれても、いや勘弁してください、と丁重にお断りするだろう。その年代にやらなければならないことはもう十分やり終えた。自己存在証明のためにまたツアンポー峡谷みたいなところに行って自分との闘争のような旅をしなければならないかと思うと、正直疲れてしまう。

身体が動くあと20年の間
どう生きるかを考える

 いまはやりたい道が見つかっており、その道は楽しさにつづいている。

 ただ、その楽しさの構造を分析してみると、すべてがポジティブな要素から構成されているのではなく、ネガティブな面もあるといえそうだ。

 50歳になると完全に人生の下り坂にはいっているので、どうしてものこりの時間を計算する。仮に65歳、いや70歳まで身体が動くと仮定しても、いまの活動ができるのは、あとわずか20年しかない。

 50年生きてきた感覚からすると20年という時間は非常に短い。理想をいえば、いまの楽しい活動をあと50年ほどつづけたいところだが、そうもいかないようだ。できることはかぎられているという感覚になり、活動の幅を意識的にせばめるようになる。

 41歳で都心から鎌倉に引っ越してきたときは下り坂にはいっていなかったので、まだ活動の幅を広げる気持ちがあった。その数年前からカヤックをはじめていたので、もう少しそれに力をいれ、そのうち素潜りによる銛突き漁もはじめるつもりだった。

 だが43歳という頂上をすぎて下り坂にはいった途端、いまから新しいことをはじめても中途半端に終わるだけだという気持ちが強まり、山と極地での活動にしぼる方向にかたむいた。海はカヤックのみにとどめ、銛突き漁の世界は完全にあきらめた。

 海外での活動を北極一本にしぼったのも、おなじだ。

 北極に通って13年、シオラパルクで10年やり、理想とする100年前のエスキモーの実力にはまだほど遠いが、それなりに自分としては手応えがあって、理想の7割ぐらいには達しているのではないかという自負がある。毎年のように1人で大きな旅をくりかえすうち、地元の猟師からも一目置かれるようになった。