しかし、こんなふうに行為に熟達するほど他の地域に行けなくなってしまうのも事実である。

 もしかりにいまから私が北極以外の場所を探検したいと思っても、たとえばアフリカに行くとしても、そこでいまと同じレベルまで世界を深めるにはまた10年以上かかるわけである。そうなるともう60だ。のこり時間を考えると、いまの北極の道をさらに深めたほうが得るものは大きいという判断にかたむく。これはたしかに経験の弊害かもしれない。

可能性を狭めていくのは
悲しいことなのか

 このように考えると、50以降の道は2つの観点から論じられる。

 ひとつは可能性が狭まってゆくという観点だ。

 行為が深まり、年齢がかさなるにつれ、のこり時間でいまと同じレベルに達するのは難しいという判断が勝り、新しい道に踏み出しにくくなる。これはつまり人生の可能性が狭まってゆくことにひとしい。そうとらえると50以降の人生は悲哀の末路のように思える。

 でも実際、私はそのようにはとらえていない。つまり、50以降の人生は可能性が狭まるのと同時に、これまでよりも大きな可能性が眠っているととらえることもできるわけだ。

 これは同じ道をどのように見るかという主観の問題なのかもしれない。ポジティブにとらえるか、ネガティブにとらえるか。どちらの観点で50以降をとらえるか、それは40代までどのような生き方をしてきたのかと無関係ではあるまい。

 40代後半で下り坂にはいったときに、オレはここまでだったかとその世界から足を洗うのではなく、肉体の老化とつきあいながら、手を替え品を替え、しつこくその道の追求をつづける。経験を深め、さらに円熟と熟達を極めると、その闇の底からかならず新しい扉がぬっと姿をあらわす。その扉はそれまでの行為と地続きであり、おなじ範疇に属するのであるが、でもその内容は真新しく、挑戦に値する未知を有しているであろう。

50代はうまくやれば
30代、40代よりも可能性に満ちている

 48歳になった春、私はこれまでの北極探検の総決算としてエルズミア到達を期して旅をした。その目論見は成就され、旅が終わったとき、私は本格的な極地旅行の世界から足を洗うつもりでいた。