雨は降ったが、奇襲ではなかった

 また、『信長公記』によれば、この日、確かに戦場には「激しいにわか雨」が降った、とありますが、信長は雨の中を進軍したのではなく、雨が止んだ後に軍を動かしているのです。しかも、信長が行ったのは奇襲ではなく、正面攻撃だったようなのです。

 信長は、両側が泥沼になった細い道を選び、今川軍の大軍が数の力を発揮できない状況を作り出しました。細い道上での戦いなら、数の少ない織田軍でも、今川の大軍に取り囲まれ、数の力で押しつぶされることはありません。

 自ら軍の先頭に立った信長は、今川勢が攻めてくれば退き、今川勢が退けばすぐに攻めるという、ヒット&アウェイ攻撃を執拗に繰り返しました。

信長は地形と状況を利用し、正面から攻撃していた

 やがて午後2時ごろ、ついに織田軍は今川義元の本陣に到達しました。

 最初は、義元を守る兵が約300、円形に固まって織田軍と戦っていました。しかし、4度、5度と攻撃が繰り返されるうちに、今川方の兵の数は徐々に減ってきて、50騎ほどになったところを、信長方の服部春安が今川義元に斬りかかりました。しかし、服部春安は逆に自身の膝を斬られて倒れてしまいます。そこへ今度は、毛利良勝が今川義元に斬りつけ、ついに義元の首を討ち取ったのです。

 つまり、『信長公記』に描かれている桶狭間の戦いは、信長の奇襲などではなく、地形と状況を冷静に利用した正面攻撃だったのです。

桶狭間の戦いで織田信長に敗れた駿河の戦国大名・今川義元(演:大鶴義丹) (C)NHK桶狭間の戦いで織田信長に敗れた駿河の戦国大名・今川義元(演:大鶴義丹) (C)NHK

なぜ奇襲説が広まったのか?

 次ページの動画ではこのほか、

 ・なぜ「奇襲説」が広まったのか
 ・当日降ったのは雨ではなく、「雹」だった可能性も高い
 ・今川軍の数、4万5000は誇張?
 ・「どうする家康」でも描かれた家康の大高城兵糧入れは、馬で運んでいなかった?

 などについてお話ししています。気になった方は、動画をご覧ください。