「奇襲」は江戸時代の創作だった
信長が大雨を利用して今川軍を奇襲した、という話は、江戸時代初期に小瀬甫庵が著した『信長記(甫庵信長記)』に書かれた内容が元になって、世間一般に広まったものだと言われています。
しかも、この『甫庵信長記』は一次史料ではなく、物語性を重視した軍記物なので、史実を下敷きにしながらも、読者を惹きつけるために、多くのフィクションや脚色がつけ加えられています。
一方で、信長の家臣であり同時代人でもあった太田牛一が記した『信長公記』という一次史料があるのですが、これには、大雨に紛れた奇襲というシーンは一切登場しません。
では、『信長公記』では、桶狭間の戦いはどのように描かれているのでしょうか。
一次史料が語る桶狭間の真実
永禄3年5月17日、今川義元は沓掛(くつかけ)に陣を構えます。
18日の夕刻、佐久間盛重らから、「今夜、大高城に兵糧が入り、明朝までに、鷲津砦・丸根砦が攻撃されるでしょう」という情報が信長にもたらされました。ちなみに、この兵糧入れを行ったのは、松平元康、のちの徳川家康です。
ところが信長は、家老衆を集めながらも具体的な指示を出さず、世間話をしただけで解散させます。家老たちは、「やはり、うつけ者だ」と、内心密かに信長を嘲笑しました。
そして、翌19日の早朝、情報通り、鷲津砦と丸根砦が今川軍に攻め落とされます。
そのとき信長は、「人間五十年、下天の内を比ぶれば、夢幻の如くなり……」と敦盛(あつもり)を舞い、突然の出陣を命じます。
敦盛を舞ったあと、織田信長(演:小栗旬)は突然出陣を命じ、少数の手勢を率いて今川義元を討ちに行く (C)NHK
あまりにも急だったため、従ったのは小姓衆わずか5人。信長はそのまま熱田へ向かいました。このとき、朝の8時ごろ。
そこから鷲津砦や丸根砦の方を見ると、すでに今川方の手に渡ってしまったようなので、信長は、そちらには向かわず、佐久間信盛が守る善照寺砦へ行き、兵の集結を待ちました。
その最中、佐々政次・千秋季忠が功を焦り、300ほどの兵で今川軍へ突撃しましたが、これは失敗に終わり、多くが討ち死にしました。この報告を受けた今川義元は、上機嫌で謡曲を謡ったと『信長公記』には記されています。








