社長秘書だった向田邦子は、なぜ「昭和を代表する脚本家」になれたのか?Photo:SANKEI

テレビドラマの名脚本家として知られる向田邦子だが、最初から脚本の道を歩んでいたわけではない。会社勤めを続けながら、雑誌のライターやラジオの台本など、さまざまな場所で書き続けていたという。副業とも言えるその時間が、やがて彼女の表現の幅を広げていく。彼女が天職へとたどり着くまでの軌跡を追う。※本稿は、偉人研究家の真山知幸『下積み図鑑 すごい人は無名のとき何をしていたのか?』(笠間書院)の一部を抜粋・編集したものです。

ザ・昭和のガンコ親父の敏雄が
子どもたちに与えたものとは?

 テレビドラマ『時間ですよ』『寺内貫太郎一家』『阿修羅のごとく』などの名作を生み出した向田邦子は、昭和の家族の機微を巧みに表現した脚本家として知られている。

 向田邦子は、父敏雄と母せいの長女として東京の世田谷で生まれた。

 保険会社に勤める父の仕事の関係で、引っ越しが多かった。宇都宮、東京、鹿児島、高松と小学校だけで4回転校している。当時の心情を『父の詫び状』に書いている。

「場数を踏んでいるとはいえ、新しい学校へお目見えにゆく朝は、子供心に気が重かった」

 父の敏雄はふんどし1つで家中を歩き回るわ、大酒を飲んではかんしゃくを起こすわで、「ザ・昭和のガンコ親父」そのものだったが、愛情深い素顔も垣間見られた。

 戦時下の1945年3月、東京は大規模な空襲に見舞われた。このままでは一家は全滅しかねないと危機感を持った向田家では、4月に、小学校1年の末の妹が甲府に学童疎開することになった。上の妹はすでに疎開していたが、下の妹はまだ幼かった。