「チャッピー(ChatGPTの愛称)が前より冷たくなった」「論理的でドライすぎる」「以前のチャッピーを返して」といった声が相次いだのだ。GPT-5になって速度や論理的思考力が進化・向上したはずなのに、無視できない数の人たちがそのキャラ変に落胆し、ユーザーに寄り添いまくるGPT-4oに戻してほしいと切望した。

 もともと生成AIは、人類の知的活動を飛躍的に前進させる最先端ツールとして開発された……はずだが、このような「優しい相談相手」的な使われ方は、開発者あるいはAI研究者にとっては予想外だったようだ。

 この感じ、何かに似ている。

 ポケベルだ。

大衆は技術に正確さより情緒を求める

 ポケベルがもともと想定していた用途は、忙しいビジネスマンや医師、警察官などの移動時における緊急呼び出しである。しかし1990年代、女子高生が数字語呂合わせメッセージ――14106(アイシテル)、0840(オハヨウ)等――を送り合って文字コミュニケーションする使い方を「発見」したことで、爆発的に普及した。

 ある技術が、設計者や専門家の想定とは異なる用途を入口にして爆発的に普及する。ChatGPTも同じだ。

 このような例は歴史上にいくつもある。

 たとえば電話。もともと想定されていたのは会社間の業務連絡や電報の代替手段といった、きわめて経済的実利性の高い用途だった。しかし実際に普及を牽引したのは、個人間の私的通話、言ってみれば「他愛のないおしゃべり」である。特に女性による利用が利用者急増の核にあったという。

 写真技術もそうだ。カメラによる写真撮影はもともと、事実の記録や肉眼では捉えられない対象の科学的な観測などを想定していたが、一般大衆が家族写真や記念写真を撮ることによって普及が進んだ。そのずっと後には携帯電話による自撮り文化も登場している。

 これらの事例には共通点がある。いずれも、開発者は「正確性や即時性の実現・共有」を求めてこれらの技術を開発したにもかかわらず、使用者がありがたみを感じたのはそこではなく、感情的・情緒的ニーズを満たしてくれる点だったのだ。