ビール、日本酒、焼酎、ワイン、泡盛、蒸留酒といろいろな酒を揃え、料理の種類だけでなく、季節や素材を考えて、その食事に合うものを選ぶのが楽しみだったようだ。保雄亡き後、ワインセラー2台に満杯のワインが残された。

 倒れて以降、食べることを禁止されたのはつらかったと思う。

 最初は水すら禁止されていたから、「舌で味わえたのは歯磨き粉の味だけだ」と寂しそうに話していた。駒込病院で好きな飲み物を飲んでいいと言われた時は、本当に喜んでいた。

懇意にしていた蕎麦屋の
鰹節と昆布だけの出汁

 自宅に戻り、クリニックの医師から、食べられるものは何でも口にしてもいいと許しが出たので、食べやすそうなものを片っ端から用意した。

 最初はプリンやヨーグルトなど液体に近いものをひとさじだけ味わっていたが、徐々に欲が出てきた。何が食べたいか、何なら食べられるか、ふたりで真剣に話し合うことになった。

 保雄はかなり悩んだ末、3つ選んだ。

 ひとつは〈Y〉という蕎麦屋の出汁。ひとつは行きつけの洋風居酒屋〈W〉が季節になると特別に作るトマトのムース。そしてもうひとつは、六本木に店を構える〈P〉というフレンチレストランのコンソメスープ。

 私はすぐにそれぞれの店に連絡を取り、事情を話し、無理を押して、とっておきの品を作ってもらうように頼んだ。

 一緒に地方の酒蔵へ旅行にも行ったことがある〈Y〉の店主は、鰹節と昆布だけで取った出汁と、かけそばのつゆ、身体に良いからと黒舞茸だけで取った出汁の3種類を用意してくれた。

 出来立ての出汁のそれぞれを、ひとさじずつ口に含ませると、むせないようにゆっくりと飲みくだす。保雄が好んだのは、鰹節と昆布だけの出汁だった。小さなぐい飲みに注ぎ、ティースプーンに一杯ずつすくい、口に運ぶと、目をつぶって香りと味を楽しんでいる。

 ふいに目を開けて、絶対に飲み込まないから葱と柚子を刻んで入れてくれないか、と頼まれた。すぐに用意し、人肌に温めた出汁に入れて混ぜ、またひとさじ口に入れると、「こんなに美味い出汁はないね」と目を細めて喜び、時間をかけてゆっくりと、そのぐい飲み一杯を飲み干した。